その溺愛、契約要項にありました?〜DV婚約者から逃れたら、とろ甘な新婚生活が待っていました〜

32 元婚約者


夫に連れられて、幾人かの貴族と挨拶を交わす。長らくロブダート侯爵家に関わりのある方ばかりのせいか、皆、対応は好意的だった。

それでも時折通りすがりに不躾にこちらをちらちらと見る人もいたけれど、そうすると決まって隣に立つ彼がさりげなくそうした視線を遮ってくれた。

そうして、何とか今日の役目を終えて、早めに帰宅しようと、広間を出た時だった。



不意に馴染みのある……懐かしい香りが鼻をくすぐる。

記憶にある……そしてあまり思い出したくないその香りに、反射的に誘われるように視線を向けると、そこにはかつての婚約者……グランドリーが立っていた。

彼の顔を視認した途端、ひやりと背筋に冷たいものが流れ落ちたような気がして、足が竦む。

「やぁティアナ、ロブダート卿。もうおかえりかい?」

しっかりと視線が合った彼は、気持ち悪いほどの笑みを頬に張り付けて、こちらに近づいて来る。

怖い。

反射的に一歩私が下がったのと、隣の夫がすっと前に出て私を庇うように背に回したのは同時だった。

「随分早くお帰りになる。折角の王宮の催しの上、二人そろっての初めての公の場なのに、まるで何か後ろめたいことでもあるようだ」

わざと、周りにも聞こえるような声であざ笑うかのように言った彼の表情は夫の背に隠されている私からは見えないけれど、長い間そんな彼を隣で見て来た私には、彼がどれだけ嫌味で意地の悪い笑みを浮かべているか容易に想像がついた。


「俺たちが、後ろめたいはははっ! そんなわけあると思うか? むしろ、もっと後ろめたく感じるべき者がいるはずなのだがな……よほど面の皮が厚いと見える」

背中越しに、夫が嘲笑を交えて、低く皮肉るのが聞こえて、私はたまらずに彼の背中の生地を軽く引く。
グランドリーを逆上させるのはこの場所では得策ではない。
また騒ぎになれば、いらぬ注目を集めて更なる噂を呼んでしまうに違いない。


「正義面して略奪者のくせに!」

案の定抑えが利かなくなったグランドリーが一層大きな声を上げる。そうなってくると、近くにいた人々だけでなく、遠目にもこちらに関心を持って見て来る者達が出てくる。

慌ててもう一度彼のジャケットの裾を引くけれど、彼はその場から動こうとはしなかった。

「略奪者? 心外だな」

代わりに聞こえてきたのは、グランドリーとは対照的な彼の静かな声だった。

「俺が求婚した時には彼女はすでに誰のものでも無かった。誰かさんのおかげでな。」


「っ! お前が貶めたくせに‼︎」


「まさか……紳士がか弱い女性、しかも婚約者という大切な立場の人に暴力を振るうなどと誰が想像できよう。
まさかその行動まで俺に操られていたとでも言うのか?」

静かに諭すような……しかし有無を言わせないその言葉は、なぜかグランドリーの上ずった怒り交じりの声よりもよく通っていた。

「っー‼︎」

そうやら、そこでグランドリーが言葉を失ったのか、息をのんだのか、一瞬の間ができる。


「そろそろ失礼する。妻はまだ病み上がりで疲れてしまったみたいだからな」

その隙に、話は終わったと言わんばかりに夫が踵を返して私の肩を抱いて、出口へ促がした。

グランドリーがどんな顔をしているのか、周囲がどのような目で私を見ているのか、怖くて、私は彼に肩を抱かれて支えられたまま、馬車に乗り込んだ。


「大丈夫か?」

馬車に乗り込むと、すぐに彼が心配そうに顔を覗き込んでくる。

「えぇ……」 

「無理をするな……震えている」

そう言った彼の手がすっかり冷え切った私の手を包む。
対照的にとても暖かい手にぎゅっと握りこまれて、そこでようやく私はほっと息がつけた。

「すまない、やはり挨拶回りをやめて早めに帰ればよかったな。怖かっただろう」

その言葉に私は首を振る。年に数回とない王宮の舞踏会だ、普段は地方の領地にいる貴族たちもこの時だけは王都に出てくるという者も少なくはない。
特に今日、彼が私を伴って顔見せして回った人たちは、ほとんどがそうした人達だった。


彼は最小限にとどめてくれたいた。

そんな事はないと首を振れば、彼が痛まし気に眉を下げた。
きっと彼の目に映る私は相当ひどい顔をしているのだろう。

「こんなに怯えて……すぐにあの男と引き離せばよかった」

苦渋の表情を浮かべた彼に、私はもう一度、今度は早く首を振って、彼の手を強く握り返す。

「いいえ! いいの、私の名誉を守ってくださったのでしょう? あのまま逃げていたらきっとグランドリーはもっと大きな声で勝ち誇ったように色々言っただろうから……」

グランドリーの性格は熟知している……執念深く、プライドが高い、そして声が大きく周りを丸め込むのが上手い。
至極冷静に淡々と言い返し、黙らせた彼のやり方が正解だったのだ。

誰が見ても、激高して騒ぎ立てるグランドリーに、過去に彼に暴力を振るわれ怯えている元婚約者とそれを守るように庇うその夫という構図だったであろう。

ゆっくりと彼の温かい手が、頬を撫でた。


「ティアナ、顔を上げて」

懇願するように覗き込まれて、恐る恐る顔を上げると、同じように顔を上げた彼が強い眼差しで見つめてくる。

「君に落ち度も、恥じる事も一つもない。だから、顔を上げて、いつもの凛とした君でいてくれ。ずっと俺が君を側で守るから」

静かに、諭すようにそう言った彼は、もう一度私の頬を撫でると、ゆっくりと口付けてくる。

まるで冷え切った私に彼の熱を分け与えるようだ。
ジワリと触れた部分からぬくもりを感じて、私もその熱を求めてそれに応じる。

十分な広さのある馬車の中で、私達は二人身体を寄せ合って不規則な揺れに身体を預けながら、何度も口づけを交わした。
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