執愛音感~そのメロディは溺愛不可避~
「…………ん」
「お目覚めですか?」

白く射し込む光に薄らと瞳を開く。
意識を失う直前まで焼き付いていた男の顔が飛び込んできて、響子は小さく悲鳴を上げた。

「怖がらないで、俺ですよ」
「び、びっくりした……」

今にもキスできそうな距離で響子を見つめ続けていた柾樹は、慌てて布団の中に潜り込もうとする響子のつむじを指の腹で撫でた。

「響子さんはかくれんぼがお好きなんですね。昨夜も相当手を焼かされましたけど」
「あ、あれは……だって、あんな……!」

昨夜の柾樹といったら、執拗なまでに響子のすべてを暴こうと求めてきたのだ。
思い出すのも恥ずかしいあれやこれやの一幕に、なんと抗議したものか困り果てた響子は胎児のように丸まって唸るしかできない。
しかし、布団の中で掻き消されそうな唸り声に混じって響いたのは──腹の虫だった。

「…………」
「…………ルームサービス、頼みますね」
「………………もう嫌……」
「健康的でいいと思いますよ」

思い返せば、昨夜は夕食も摂らずに愛されてしまったのだ。空腹もここに極まれりである。
苦笑混じりに半身を起こした柾樹の隙をついてバスルームに逃げ込もうとした響子だが──服が、ない。

「あれ?」

放られていた覚えのある足元にも、するりと落ちていったはずの床にも下着一枚見当たらずない。
虚しく空を掻いていると、「クリーニングに出しておきましたよ」と返されて声が裏返った。
下着だけ身につけた柾樹が振り向いて微笑む。

「もう少しで戻ってくると思います。昨日、服装を気にされていたようでしたから、体の調子がいいなら今日はショッピングに行きましょうか。プレゼントさせてください」
「え、ええ……?」

このまま流されていたらとんでもない借りを作らされそうだ。
シャワーを浴びてすっきりさせた頭で対策を練らなければ。

行儀が悪いことを承知の上で、シーツを巻き付けてベッドから出る。
バスルームに向かうところで、蓋が開いたままのグランドピアノが目に入った。
椅子が本来の角度から大きくずれたままで、昨夜あのままベッドになだれ込んだ記憶が蘇って頬が熱くなった。

吸い寄せられるようにピアノに近づき、白鍵に人差し指を乗せる。
まっさらな一音が空気を揺らす。
朝に溶ける音の糸を手繰り寄せるように、隣から柾樹もオクターブ下で同じように音を重ねた。

「また、連弾しましょうね」
「……レパートリー増やしてから、ね」
「はは、頑張ります。そうだ、朝食は和食にしましょうか。朝はパンよりご飯派ですよね」
「そうだけど……ってなんで知ってるの」

訝しげに響子が見上げると、柾樹はいつもの微笑みを浮かべてとろけるような声音を奏でる。

「響子さんのことなら、全部知りたいですから」

煙に巻かれたようで釈然としない。
そもそも彼の言う「全部」が何処から何処までを指すのか──考えを巡らせてはたと気がついた。

「そうだ、そもそもどうしてしぃちゃんの喫茶店の近くに居たの。今更だけど偶然にしてはなんだか──」
「運命ということにしておいてください。ロマンチックでしょう」
「まさか私が弾く機会を窺ってずっと……」
「何のことやら? さあ、シャワーを浴びましょうか」

巻いたシーツごと、ひょいと抱き上げられてバスルームへ連れて行かれる。これでは昨夜のやり直しだ。

「ちょ、ひとりで入ります!」
「お手伝いさせてくださいよ。昨夜、わがままを聞いてあげたお礼と思って」
「わがままってどっちの!? ねえ、ほんとにひとりで──」

噛み合わない二重奏がバスルームに消えていく。
ざあ、と押し寄せた水音に流された不協和音が果たしてどのような調べとなって愛を奏でるのか──
始まりの音色は、ふたりしか知らない。
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