執愛音感~そのメロディは溺愛不可避~
「こんな時間までお仕事ですか。大変ですね」
「……ええ、誰かさんのせいでミスしたもので」

上野に聞こえない距離まで歩くと、響子は早足になって柾樹とも離れるように歩く。足の長さが違いすぎて、せっかく開いた距離も一歩で詰められるのが腹ただしい。
その苛立ち紛れにトゲのある言葉を投げつけたところで、ぱたりと斜め後ろの足音が止まった。
違和感に響子まで足を止めてしまう。振り向けば、男の足で三歩分くらい後ろで柾樹は立ち止まっていた。
怒らせたか、と一瞬背筋が冷えたものの、どう見てもその表情は何かに憤る険しいものではない。
寧ろ逆だ。へにゃりと眉を下がらせて口元を綻ばせた柾樹は、正に相好を崩すといった風に微笑んでみせた。

「残業レベルのミスをするほどに、俺のことを考えていてくれたんですね」
「…………はあ!?」

確かに逆説的に言えばそういうことになるが、ニュアンスが全く違う。これでは恋煩いに悩む乙女のわがままではないか。
昨日のあの出会い方で、どうすればこんなにおめでたい解釈ができるのかなじってやりたい衝動に駆られたが、うまく言葉が出てこない。
それをいい事にスタスタと距離を詰めた柾樹は、当然のように響子の手を取った。
手が見えなくなるほどすっぽりと包まれて、背が高ければ手も大きいという当たり前の事実を思い知らされる。

「俺もですよ。一日中、昨日の響子さんのメロディを、声を、唇を……ずっと思い返していました」
「く、くちび、る」

そうもはっきりと言葉にされると、必死にぼやかそうとしていた記憶が急に解像度を上げて脳内で再生されてしまう。
近づいてきた時の視界、吐息を感じた一瞬、体温が伝わった時の粟立つ皮膚。
今にもうなじを駆け上がってきそうなあの感覚を必死で押さえ込んで、響子は手をふりほどこうと懸命に腕を振る。

「恥ずかしがり屋なんですね。可愛らしい」
「あ、あのねえ! 先輩から助けてくれたことは有難いけど、今日会う約束なんてしてないし、そもそもこうして普通に会話してるのだっておかしいんだから、私、帰らせてもら──」

ひゅ、と響子の喉が鳴る。
柾樹の瞳が表情を失っていた。

「やっぱりあの男、響子さんに気があるんですか」
「……え?」
「初対面ですし、確証が持てなかったから見逃しましたが……甘かったか」

チッと舌打ちして柾樹は上野と別れた方角に目をやる。もちろん彼がまだそこにいる訳もないのだが、もし直接相対していたなら竦み上がりそうな鋭いまなざしだ。

「あ、あの…………高階さ、ん?」
「っ! はい、なんでしょう」

恐る恐る声をかけると、柾樹はころりと声音を変えてとろけるような笑みを浮かべた。

「名前、覚えていてくれて嬉しいです」
「め、名刺を頂いていたので……」

ジェットコースターのような落差に、目を瞬かせる響子の手がじわりと汗をかく。
居心地の悪さに身じろいだその手を包み直されて、小さく腕を引いた。
他人に手汗を感じ取られる気まずさと嫌悪感に苛まれていたが、柾樹はそれには一切触れてこなかった。

「指先が冷たい……怖がらせてしまいましたね」
「え」
「すみません。響子さんのこととなるとどうにも……ああ、これは言い訳ですね」

先程までの剣呑さから打って変わって、しゅんとしおれた表情で柾樹は響子の手を引いて歩き出す。

「お腹空いたでしょう、好きなものをご馳走しますよ」
「へ? ……っと待って、私、貴方とご飯なんて」
「あっ、好きなものと言っておいてなんですが、和食以外にしませんか。向こうでの暮らしが長くて箸の使い方を忘れていそうで」
「は、箸」
「使えないわけではない……ですが、やはり見苦しくないか不安なんですよ。見栄を張りたいだけなんですけどね」

わがまま言ってすみません、と殊勝にも頭を下げた柾樹は、それで何を食べましょうか、と重ねて尋ねてきた。

「だ、から、私は帰りますって」
「俺、嘘は嫌いなんです。会う約束してたって言ってくれたなら、本当にしてもいいと思いませんか?」
「あれは方便! 嘘も方便って言うでしょう?」
「嘘から出た誠とも言いますよね」
「へ、屁理屈……」
「響子さんと過ごせるなら正論だろうが屁理屈だろうが構いませんから」

ダメ押しとばかりに笑顔で畳み掛けてきた柾樹の迫力に根負けした響子は、ふたつ先の信号横にあるイタリアンを提案したのだった。
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