執愛音感~そのメロディは溺愛不可避~
「こじんまりとしていて家庭的で……いいですね。流石、響子さんのチョイスです」
「去年の忘年会で一度使っただけ。駅の反対側だからあまり来ないの」
「でも、お客さんの賑やかな声と、カトラリーの音。それに店員さんのテンポが歯切れ良くて、楽しいメロディが生まれそうだ」
「メロディ……」

飲食店をそのように表現する人物は初めてだ。
改めて、不躾にならない程度に席から店内を見渡す。
平日の夜だけあって満席には至らないまでも、その分ゆったりと食事やお喋りを楽しんでいる顔が多い。
給仕しているスタッフも慌ただしさに揉まれている時の顔ではなく、ホール全体を俯瞰するようにそれぞれのサーヴィスに励んでいる。

「まあ、確かに……そうね」

思えば、柾樹の発言を肯定したのはこれが初めてかもしれない。
それを皮切りに、このどこか浮世離れした人間が何を考えているのか、知っておくのも悪くないと思えてきた。
食事を終えた後、うまく切り抜けるためにもある程度交渉の材料を得ておく必要があるし、何より彼に対する疑問は山積みなのだ。

「高階柾樹さん、貴方の名刺を拝見しました。音響設計士って初めて聞くお仕事でしたけど……コンサートホールとかの設計を?」

自分のことばかり知られているのは居心地が悪い、というささやかな反撃のつもりだったが、柾樹は陽の光を浴びた花のように瞳を光らせた。

「嬉しいな、興味がおありですか」
「え、ええと、興味というか、なんというか」
「おっしゃる通り、コンサートホールやライブハウスといった音を響かせるための施設に関わる仕事ですね。反対に防音室や消音設備に携わる部門もありますよ」
「ああ、なるほど」

音と聞いてまず浮かんだのは響かせる方だったが、確かにその逆も必要だ。新しい知識を得て悪い気はしない。

「昨年、独立した部下がウィーンで初仕事だったんです。師匠筋として先方との橋渡し役で渡欧していました。有難いことに此方をご指名頂いている方とのご縁が思わぬところで繋がっておりまして、あちらこちらと各国を引きずり回されまして……予定を随分超えて長逗留になっていたんです」
「だからさっき、お箸の使い方がどうとかって」
「覚えていてくれましたか」

睦言でも囁かれたようにとろんと目を細める柾樹。その甘いまなざしに毒気を抜かれてしまいそうになる。
ふい、と頭を振って高鳴りかけた鼓動を押さえ込んだ。

「さ、さっき言われたことくらい覚えてますよ。いきなり箸の使い方がどうこう言われて、こっちの方が身構えましたもの」
「いえ、記憶力ではなくて、俺の声が貴方に届いていたという事実が嬉しくてですね……ほら、今こうして貴方の耳は、俺の声だけを選んで聞いてくれているわけでしょう?」
「あ、当たり前じゃないですか。そうじゃなければ会話が成り立ちませんよ」
「でも、この店にはいろんな音が、声が溢れている。興味のないことならば意識はそれを留めておこうとしませんから」

柾樹は手のひらで店内の音を掬い取るようにゆったりと動かす。
動きを止めると、音を握り込むようにして人差し指をぴんと立てた。

「この距離なら、奥の席の会話くらいは聞き取ることは可能ですよね」

響子は視線だけを柾樹の示す席に向ける。会社帰りらしい女性三人組が見えた。確かにデザートがどうのという単語が聞き取れる。
目だけで頷くと、柾樹もやはり同じようにした。

「彼女たちは俺たちがこの席に着く前から楽しそうでした。もちろん、他にも音は溢れている。けれど、その中で響子さんが聞き取ろうと決めたからこそ、俺の声を聞いてくれている。そうじゃなければただの雑音ですからね」

当たり前のことすぎる。改めて言われても確かにそうとしか言えないことだ。
なのに──

「だからね、俺と響子さんの音が、お互いをちゃんと意識して結びついてる。それってとても貴重なことで、大切にしたいことなんですよ」

「当然のこと」が柾樹の声で解きほぐされて新たな意味を纏う。それは響子の中で啓示のように鳴り響く。

「……響子さん」

柔らかく囁かれて、どう見つめ返せば良いか、響子の視線が逃げを打つと、柾樹は小さく笑った。

「料理、来ましたよ」

はっと我に返る。
見上げれば、ウェイターが「お待たせ致しました」と微笑んでいた。
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