後宮の精霊姫~雪の日、少女は王子に連れ去られた~

5 錠

 ロゼの変調は忍びやかに、確実に訪れていた。空気の匂いがまるで淀んだもののように感じられて呼吸が浅くなり、病のように寒さに弱くなる。
 けれどそういった女性体特有の変調は男性体がほとんどの有翼人種の社会ではあまり知られておらず、彼らが伴侶の妊娠を知るのは数か月が必要だった。
 一方で無性が有翼人種との交わりに体調を崩すのは、種族の違いからむしろ当然のように起こっていた。ただ静牢でもそうだったように、官吏たちはその変調を含めて無性たちに代金を支払うだけで、一夜が明ければあっさりと立ち去って、抱いた無性のことなど二度と思い出すことはなかった。
「私の離宮に君を移そうと思う」
 だからジュストが三日を過ぎる頃になってもロゼの元に訪れて、しかもそんなことを言い出したとき、ロゼは彼の言葉が信じられなかった。
「離宮はここより暖かくて過ごしやすい。君が静養できるよう、今居館を整えさせているから」
「とんでもない」 
 ロゼは慌てて首を横に振る。
「もったいないほどの厚意をいただきました。少し時間がかかりますが、いただいた薬も何もかも、働いて必ずお返しします」
「君をあのような場所には帰さない」
 ジュストは暗い目をしてロゼの言葉を遮る。
「二度と帰さない。君があそこで誰を待っていようと」
 ロゼは瞳を揺らして、違うと首を横に振る。ロゼはどこにも行くあてがなかったから、静牢で暮らしていた。
 けれど本当はジュストの言う通りなのかもしれない。夢の中でジュストの訪れを待っていた。初恋の人と過ごせるのは記憶の中だけとあきらめきれず、再会の喜びのままにジュストに体を開いた。
「できません。まさか……殿下の元には行けません」
 そして今、事もあろうに彼から命を預かっている。自分の浅ましさが招いた事態は息も詰まりそうで、ロゼは顔を覆う。指の間から雫がつたって、膝を濡らした。
 ジュストは息を呑んで、しゃくりあげるロゼの肩を自分に引き寄せる。しかし言葉を覆すことはないまま、しばらくロゼの肩をさすって黙っていた。
「静牢に帰してください。お願いです」
 ロゼが悲鳴のように願っても、ジュストはかぶりを振って否定する。
 どうしたらいいのだろうとロゼは迷路に入り込む心地がした。彼の優しさにつけこんだ罪を償うことも何度となく考えた。けれどこの身に預かった存在は重すぎる。彼が存在を望まなくとも、ロゼはもうその命を愛し始めていて、自分とともに滅ぼすことなどできない。
 一人にしてください。ロゼが消え入るような声でつぶやくと、ジュストは深く息をついた。ロゼの手を取って顔をあらわにすると、静かに告げる。
「君は私を受け入れてしまった。もう交わる前には戻れない」
 赤く腫れた目をどこか懐かしむようにみつめて、ジュストはロゼのまぶたに唇でそっと触れる。
「具合が悪くなったらすぐに言うんだよ」
 体温を惜しむようにロゼを抱きしめると、ジュストは体を離して部屋を出て行った。
 部屋に一人になったロゼは、隣の部屋にジュストが入った途端従僕たちの足音が近づいたのを聞いていた。抑えた声ではあるが、従僕たちは口々に告げる。
 陛下から毎日のように、御前で説明するようお言葉をいただいています。どうなさるおつもりなのですか。
 ジュストは従僕たちに言う。今彼女に無理を強いれない。心も不安定な状態なのだ。渋るジュストに、従僕たちは切望するように告げた。
「あなたは唯一陛下の血を引いた方なのですよ!」
 その言葉を聞いたとき、ロゼに戦慄が走った。
 静牢で官吏たちの話すのを聞いていて、王が妃を迎える気配がないという噂は知っていた。王には妹姫が一人いて、彼女の唯一の子がジュストだ。
 王は年の離れた妹姫を片時も離さないほど溺愛していて……有翼人種にしばしば起こるただならぬ事が二人の間にもあったと、静牢で籠るように暮らしていたロゼのところにも聞こえていた。
「私は陛下にお仕えする一人の騎士だ」
 ジュストが王宮ではなく騎士団に寄宿していようと、有翼人種たちは彼を王位継承者として語る。女性体も数少なくなる中で、彼が誰を妃に迎えるかは大きな関心事だった。
 陛下の御子。何度も噂では聞いていたが、信じたくなかった。ロゼは血の気が引きながら無意識に自分の腹部を押さえる。
 ……恐ろしいことをしてしまった。ただ皮肉なことに、自分がこれからすべきことは決まった。
 ロゼは震える手で窓を開くと、降りられないか目で確かめる。部屋の窓の下は通路に通じている。足場といえるほどのものはないが、カーテンを垂らすなどすれば壁をつたって通路に至ることができるかもしれない。
 どこにも行くあてなどなかった。けれど彼の子を無事産み落とすことができる場所なら、一つだけ知っている。……ただ、ロゼの恋心も体もこなごなに壊れるのと引き換えだ。
 それでも構わない。ロゼが身を乗り出そうとしたとき、その手がつかまれた。
「何か見えた?」
 いつ入って来たのか、ジュストがロゼを抱きかかえるようにして後ろから腕を回して立っていた。
「そろそろ冷えてきた。ここは、閉めておこう」 
 ロゼの手を窓から離して、ジュストは窓を閉めると、錠を下ろしてしまう。
 あ、と短く声を上げたロゼの目を手で覆って、暗闇に落ちた視界の中でジュストの声が聞こえる。
「……君に錠をかけたくはなかったが」
 窓にかかった錠と同じ音が、カチリとロゼの手首で響いた。
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