不器用なOLは冷酷公子様の溺愛に気づかない~レイリス公国恋慕譚~

3 異国にて

 独特の濡れたような草木の匂いと、夜になると一気に肌が粟立つ寒さを感じると、異国に来たのを実感する。
 藍子がレイリス公国に入国してそろそろ十年になる。つまりエドアルドの予告は当たったのだ。 
 仕事に慣れた今は、花に憧れたときのような夢の世界にはいない。レイリス公国は気候の厳しい土地だ。
 麻衣子は農業の研究者として日本から派遣されている。夏は炎天下、冬は氷点下に倒れそうになりながら、時には長靴も意味がないほどのぬかるみに浸って作物を見る。肥料の匂いが染みついて、列車に乗った途端周りから振り向かれることもある。
 でも今も夢見るような思いを抱くことがある。仕事中だというのに、心が揺さぶられるときがあるからだ。
 車から降りてビルに入り、所定の場所に着くまで、藍子は薄々今日の会議の結果を予想していた。
 始まった会議の中、藍子はモニターに映ったその人を見て、一瞬少女のように心が揺らいだ自分を叱った。
 藍子の上席、今回のプロジェクトの総責任者である部長がためらいがちに口を開く。
「シーザム卿、貴国とわが社は利害が一致しています。この件は議論が尽きて、本社の決定を待つばかりです」
「実に不確かな答えですね」
 レイリス公国の大公代理、シーザム卿と呼ばれるようになったエドアルドは、冷えた宝石のような目で部長を見返す。
 エドアルドは言葉としては丁重に、けれど内容としては冷厳に告げる。
「私は確かな諾を貴社から得たい。……つまり、それにはまだ足りない」
 仕事中のエドアルドは、妥協のない審判者のように見える。藍子はその前に座ると、たとえ自分に向いているわけではなくとも恐れを抱く。
 藍子の勤める会社は、長らくレイリス公国と交渉を進めていた。
 それがかつてエドアルドの語ってくれた、海路輸送のプロジェクトだった。プロジェクトは実現間近で、エドアルドはビジネスの分野でも、大学のときから的確な展望を持っていたのだった。
 けれどエドアルドが指摘しているとおり、藍子の会社は確かな諾を口にしないまま最終段階に進もうとしていた。
 エドアルドは瑠璃色の瞳を細めて告げる。
「貴社はまだ、本件のリスクを描き切れていない。……何かあったときの後退の方を予定しているように見えます」
 藍子は内心で、彼には自分たちのことが空高くから見えているような錯覚を覚えた。
 藍子の会社は最後の逃げ道を残そうとしている。エドアルドにはそれがずるく見えていることだろう。
 藍子は顎を引いて言葉を挟む。
「シーザム卿、少し時間をください」
 藍子は怯みそうになる自分を奮い立たせて言った。
「本社に出向き、その意思を確認して、また報告させていただきます。二週間後でいかがですか?」
 エドアルドには藍子の抵抗が醜く映ったかもしれない。藍子は内心で痛む心を抱えながら、彼の答えを待った。
 エドアルドは黙って、一息後に返した。
「……いいでしょう」
 会議はまもなく終わって、部長は焦りながら藍子に言った。
「シーザム卿の不信を何とか解かないと。すぐに動いてくれ」
「わかりました。部長、予定は大丈夫ですか?」
 部長はふと言葉に詰まって、弱気な一言を告げた。
「この件は君に任せるよ。僕が本社に行ってもね」
「……はい」
 部長が本社との板挟みを嫌うのはわかっていた。藍子は抵抗することなく、一人で本社に出向く次第になった。
 暖房が鈍い音を立てる夜のオフィスで、藍子は一人資料を作っていた。
 レイリスに入国して十年が経つ今、日本にいた頃とは何もかも勝手が違った。つらくてやめたいと思ったことくらいはある。
 でもそれより、やり遂げたい思いの方が強い。
――レイリスにおいで。君と一緒に過ごしたなら、花のような日々だろうから。
 エドアルドが留学していた三か月間、彼はレイリスの文化や習慣、暮らしにまつわる知恵の類まで、様々なことを藍子に教えてくれた。
 いつしか藍子もレイリスで働くことを夢見て、そして側にエドアルドがいる想像をしてしまっていた。
 就職は独り立ちしたくて急いだから、すぐにレイリスで働くことが叶ったわけではなかった。それに大学のときは実感していなかった日本人という立場が、レイリス人というエドアルドの立場と対立するときもあった。
 ……ただ、今もエドアルドにみつめられると、どくりと胸が動くのは変わりない。
 藍子はパソコンから手を離して、目を閉じて苦笑する。
 彼は結婚こそしていないが、きっともうとっくに恋人ができている。
 こんな望みのない恋、するつもりなかったのにね。自分に呆れたとき、携帯電話に着信があった。
 藍子が慌てて携帯電話に出ると、おどけたような声でエドアルドが電話口で言った。
「ごきげんいかが? ワーカホリック気味のお嬢さん」
「もうお嬢さんなんて年じゃないわ」
 藍子が苦笑を返すと、エドアルドは昼間の冷厳な声が嘘のようにくすくすと笑って言う。
「レイリスの女神は、永遠に少女だからね。僕の女神も、少女のように扱わないと失礼だろう?」
「あなたのせいで残業してるの。ちょっとは申し訳なく思ってよ」
 藍子はそう言ってから、首を横に振って言葉を続ける。
「でも、あなたの指摘はもっともだったわね。あきらめて働いてくるわ」
 終業時間もだいぶ過ぎた頃、エドアルドは時々電話をくれる。それを喜んでいる自分がいるのを、藍子は知っている。
 エドアルドは電話口で、ふいに声の調子を落として言った。
「アイコ、無理をしていないか?」
 そう言って彼が気遣うのをやめないから、藍子は今も淡い期待を彼に抱いてしまう。
 決して仕事に手を抜きたくないから、ついやりすぎるときがある。同僚を追い払って仕事を抱える自分は、あまり要領がよくない自覚がある。
 エドアルドは気がかりそうな声音で言う。
「僕の好意を、君のビジネスの邪魔にはしたくない。けれど君が体を壊すくらいなら、僕は立場を利用してでも君から仕事を奪うよ」
「……あら、怖いわね」
 藍子は無理に笑ったが、次の言葉に息を詰める。
「僕はまだ年下の留学生に見えているかな? 今の僕は君が望めば、君の全部を引き受ける」
 藍子はごくんと息を呑んで、表情を変えたことに気づかれないように言った。
「私は私の面倒くらい自分で見れるわ」
 そう精一杯強がる自分は、可愛くない自覚がある。藍子は早口に言葉を続けた。
「冗談ばかり言ってないで、朗報を待っていて。私は立派に仕事をして帰って来るから」
 藍子は今度は心から笑って言った。
「ありがとう。励ましてくれて嬉しかった。じゃ」
 藍子は多少強引に通信を切った。
 タイの上から胸を押さえて、その下の心臓が主張しているのを聞かないふりをする。
 貴族の彼とただの一社員の自分は、本来なら交わるべきではなかったのかもしれない。
 けれど窓に映った藍子は、やっぱり少し夢見るような目をしていた。 
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