不器用なOLは冷酷公子様の溺愛に気づかない~レイリス公国恋慕譚~

4 恋人の場所

 土曜日、藍子は日本に発つ前のひとときを使って街に出かけた。
 藍子の在住するレイリスの王都は、王宮に通じるメインストリートこそ海外の高級ブランド店が立ち並ぶが、一歩路地に入れば昔ながらの市場でにぎわう。
 色とりどりのランタンが下げられた屋台が立ち並び、野菜や果物や、靴に帽子、布巾のような生活雑貨まで何でもそろう。
 藍子は屋台ではちみつの混じった柔らかいパンと熱いハーブティーを買って、風よけの露店の下で遅い昼食を取る。
 まだ陽が降りてくる前だから、白い息をつきながら休憩するにはちょうどいい。
 それに藍子は土日にここで座って、道を挟んだ向こうにある石造りの建物を見るのが好きだ。
 柱と屋根に囲まれたほこらのような岩陰に、小さな泉がある。民間信仰にある幸運の女神が足を休めたところだといわれている。 
 幸運の女神は気まぐれで恋多き女性だから、レイリス中に似た場所がある。ライトアップされて恋人たちの絶好のデートスポットになっているところもあるが、藍子はここの露店から見える白い石だけの泉が気に入っている。
 藍子は同僚には現実的に思われているが、結構夢を追うタイプだと自覚している。恋に恋する年齢ではなくなった今も、夢見るように惹かれる気持ちはいつも心の片隅にある。
 この仕事が終わったら女神の泉を、こっそり回ってみようか。あの人を思いながら巡れば、女神様がちょっとはあの人との接点を増やしてくれるかもしれない。
 そう思ったとき、藍子は自分の気弱さに口をへの字にする。
 接点を増やすって何よ。子どもの頃に夢見た大人の私は、もっと格好良く恋をしていたじゃない?
 積極的に近づいて、時には駆け引きもして、みんなに祝福されてウェディングを迎える……。
「ばか」
 また夢見てると、藍子は胸を押さえた。
 現実の藍子は胸の内にエドアルドとの思い出を隠しているだけで、直接会うことさえまれだ。
 まして重要なプロジェクトの瀬戸際で、場合によっては彼にノーを突きつけることになるかもしれない。
 でも、駆け引き上手で美しい女神様、聞いてください。私は今も、彼と学生の頃に描いた夢を歩き続けているのです。それはいけないことでしょうか。
 弱気な目で女神の泉を仰ぐように見ていた藍子の思いが、まさか女神に届いたのだろうか。
 泉の石段の前で立ち止まった、長身の男性。その背中が、藍子が今繰り返し思い返している人と重なる。
 藍子はほとんど何も考えたつもりはないまま露店を出て、その人を呼び止めていた。
「エドアルド」
 彼がこの国を負って立つ立場で、自分がただの外国社員だということも一瞬忘れる。
 まさかこんなところで偶然会うはずもないのにと藍子がただみつめたとき、彼が振り向いた。
 鮮やかな瑠璃色の、見開いた瞳と目が合う。
 彼の口がアイコと動いた。
 エドアルドは立ちすくんだ後、我に返ったように早足で藍子のところに近づいてくる。
 藍子はまだ信じられない思いで声をかける。
「どうしてここに? 仕事?」
 いつもからかうように笑うエドアルドが、言いよどむ気配がした。
 藍子がまばたきしているうちに、エドアルドは口を開く。
「立ち話には寒い。歩こう」
 藍子は夢を見ているような心地で、こくんとうなずいた。
 屋台から香草混じりの湯気の匂いが漂い、下げられた魔除けのリングが風にあおられてシャラシャラと音を立てている。
 昼はまだ女性も見かけるが、この国では女性の一人歩きは珍しい。夫と思われる男性が手を取り、牽制するように周囲を見やりながら付き添っている。
 手がかすめるかかすめないかの微妙な間を空けて歩く二人は、レイリスの日常には珍しい。
 エドアルドは息をつくように言葉を口にした。
「……祈りをね、捧げていた」
「何の祈り?」
 藍子が問い返すと、エドアルドは苦笑して言う。
「日本にもあるだろう? 秘密の祈りさ。中身を知られたら、叶わなくなってしまう」
「ふふ。誰かを呪っていたのかしら。もしかして私?」
 藍子が冗談交じりに返すと、エドアルドは口元を歪めて皮肉った。
「君は残酷だな。女神みたいだ」
 藍子は彼の意図がわからず首を傾げると、エドアルドはふいに話題を変えた。
「ところで、君はここでの生活が気に入っているな」
「うん……そうね」
 藍子は息をついてうなずいた。苦笑しながらぽつりと返す。
「とても。古びた決まりと景色に囲まれて、人がおせっかいで」
 子どもの頃、世界は不自由な暖色で藍子を包んでいた。今は、その頃に少し似ているかもしれない。
「優しい国。ずっと昔からいたように思えてくる」
 ……そして、あなたがいる国だから。
 藍子はもうちょっとで口にしそうになった言葉を呑み込んで、いつものように勝気な一言を告げる。
「安心して。仕事は冷静にするわ。あなたとの距離も守る」
 藍子は無理に笑って言う。
 十年来の付き合いのエドアルドには見透かされているかもしれない。本当はもうだいぶ前から、冷静に仕事ができていないこと。
 エドアルドが立ち止まって、数歩の後に藍子も立ち止まる。
 陽が沈み始めて、夕闇と共に紫の光が満ちていた。空気は一段と澄んで、肌の感覚も薄れている。
 エドアルドは切ないような声で言う。
「僕らの距離は、それほど遠ざかったのか?」
 この十年間が心の中を駆けていく。恋人同士のような甘い時間では決してなかったのに、彼がいつも気遣うように自分を見るまなざしを感じていた。
「あなたとは友だちよ」
 だから藍子が彼に返せたのは、自分に繰り返し誓った言葉でしかなかった。
 藍子はエドアルドの気持ちがわからないまま、そう言って壁を作った。
「明後日帰国するわ」
 藍子はすくんと心に空洞ができるような思いがしながらも、恋人の場所に背を向けた。  
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