わたしの結婚〜異能の御曹司に見出され、愛されて〜

1、夕霧花魁

 ここは遊郭。

 花街、色町、傾城町。いろいろ呼び名はあるが、結局、女が売られて買われて捨てられる。

 それが事実で、それ以外にはない。


 「今夜は、高司のおじい様はいらっしゃいますかね」

 おちょぼが部屋に入って来るなり、つぶやくように言った。まだ十才のかむろ(遊女の見習い)で、わたしが面倒を見ていた。

 高司のおじい様とは、わたしの旦那様と言ってもいい大得意客だ。この人のおかげで、わたしはこの店で遊女の花形である花魁になれ、特別待遇を受けていられる。

 遊女の元服ともいえる十三才での水揚げから、十八才の今まで、わたしはおじい様以外の客と夜を共にしたことがない。

 もちろん酒席の接待は別で、その場の飾りとして座ることはよくある。

 『武器屋』の一等花魁として、わたしはもう五年もその座を守ってきていた。

 こんな恵まれた遊女、花魁は至極まれだ。吉原広しといえど、わたしだけかもしれない。

 その大恩人の高司のおじい様が登楼しなくなって、ひと月も経とうか。

 この人は海運陸運で大きな財を成した大富豪だ。足が遠のいたとはいえ、月々のわたしへの揚げ代(遊女と遊ぶための代金)が途絶えたとは聞かない。

 もしそんなことがあれば、わたしは楼主から、この特等室をとっくに追い出されてしまっているはずだ。
 太客が吐き出す金が、花魁の命のすべてなのだから。

 「お手紙は出しました?」

 わたしは返事をしなかった。手紙は重要な遊女、花魁の営業道具だ。用がなくても書くものを、ひと月も顔を見せないおじい様へ書かないわけがない。

 もう、十通も書いた。その一つにも返事はなかった。

 「姉様は、お高くとまりすぎるのが玉にきずなんだから」

 おちょぼが生意気なことを言う。ここ『武器屋』での姉妹で、実のそれではない。

 彼女のせりふは、店の誰かの受け売りに決まっている。

 「うるさい」

 「あ、そろそろお昼だわ。運びましょうか?」

 「よい。下で食べる」

 かむろを連れて階下に降りた。一階は帳場や風呂、台所、他に食堂などがある。板敷の食堂には、机が並び、遊女や花魁が集まっている。

 遊郭の楽しみと言えば、食べることぐらいしかない。楼主は心得ていて、『武器屋』の食事はかなり上の部類に入るだろう。しなびたたくわんだけを食べさせる店など、山のようにあると聞く。

 わたしも初めてここに来た時、食事だけは感動したものだ。つやつやの白米に汁物に焼き魚、煮物まで付く。それが、花魁、遊女だけでなく、見習いのかむろや新造(かむろの姉さん格)まで平等に食べられた。

 玉子焼きの甘いにおいが漂ってくる。女中が座ったわたしの前に食事を並べた。

 箸を取ったところで、嫌みな声が届く。

 「あらあら、天下の夕霧花魁が、下々に混じってお昼ですか」

 見なくても、花魁の紫だとわかる。何かにつけ張り合ってくる女だ。

 知らん顔で卵焼きを頬張った。

 食欲旺盛なおちょぼがぽろぽろこぼすので、注意した。かむろや新造の教育も花魁の仕事だ。また生活費の面倒も見る。

 「高司様もずいぶんお足が遠のいて。あんたの高慢ちきが、鼻についてきた頃なんじゃない? どうせ暇なら、お茶引いてないで、この後昼見世に出たら? お父さんも(楼主のこと)喜ぶわよ」

 昼見世はとは、昼間の営業のことで、格子の前に座り客を引くことだ。夜とは違い、冷やかしも多い。

 わたしは張り見世をしたことがない。遊女になったと同時に、高司のおじい様が専属の契約をしてくれた。彼のためだけの遊女だった。

 しかし、これ以上おじい様の来店がなければ、別な客を取る必要も出てくる。最近胸にすくい出した悩みの種だった。周りが思う以上に、わたしは追い込まれていた。

 「夕霧花魁が昼見世に並んだら、さぞ人目を引くねえ」

 「吉原中の話題よ」

 「夕霧花魁は宮様がざれ歌に詠まれたとかって、騒がれたもんだけど。結局、どこからも身請けの話も聞かないわね」

 「十八は盛りだけど、こっからは下り坂。今までと同じようにはいかないわよ」

 ひそひそと声が飛ぶ。

 これまで太客一本で、のうのうとしているわたしを他の遊女が面白いはずがない。いっそのこと、頼みの客が離れ落ちていくところを見たいくらいが、正直な本音だろう。

 「人目を引くついでに、その高い頭も下げなって」

 紫の声の後で、くすっと笑い声が起きた。

 箸を置いた。

 「今笑ったの、誰だ?」

 談笑が止んだ。ざっと周囲を見渡すと、目が合った者はすぐに目を伏せた。食器の触れ合うのと、咀嚼の音だけが続く。

 「おお怖い。客日照りが続いて、ヒステリーなんじゃないの、あんた。それとも神経からの月経の乱れかしら。とうとう金が詰まって特等室を追い出されるから」

 わたしは立ち上がり、裾をさばいて紫のそばまで行った。垂らし髪で、こちらを見上げた彼女の頭に、隣りの女のみそ汁をぶっかけてやった。

 「何すんのよ」

 「黙れ、貧乏公家が」

 紫がわたしの衣をつかんだ。その手をわたしは足で踏みつけた。悲鳴が上がる。

 彼女の手首をかかとでぎゅうと踏みつけながら、言う。

 「『武器屋』の特等は夕霧花魁だ。勘違いをするな。あんたじゃない!」

 自分に言い聞かせるようだと思った。

 遊女、花魁は売り上げが正義だ。店の序列のすべて。

 手首を取り返した紫が、わたしをにらみつけた。眼のふちが涙ぐんで赤い。唇を震わせて、それでも言い募る。

 「嫌な女。元お姫様が聞いてあきれるわ」

 「あんたもの」

 他の遊女たちは喧嘩を無視し、また談笑しつつの食事に戻った。花魁どうしは珍しいが、きつい生活の女が群れている場だ、いさかいなどしょっちゅう起こる。

 ここ『武器屋』は、主に元武家の子女が買われて集う、吉原でも変わった遊郭だ。お目見え以下の御家人の娘から旗本階級もごろごろいるから、維新後の世相は武家に世知辛い。

 中には紫のような公家の出の娘もいた。時流に乗り損ねた親に売られ、または家臣に背かれ裏切られ、わたしたちは吹き溜まりにたまるように寄り合った。

 わたしの出自はここでは一つ頭抜けていた。霧林家八千石。拝領邸は二千五百坪を超える。その最後の当主は筑後守霧林清永。わたしの父君だ。

 時代の変化に取り残された武家の末後は惨めだ。上手く転身できたものは稀で、大抵が家財を売り、最後には妻女まで売る。

 父君はすべてを失い。困窮ののち家臣らと自害した。母君はわたしが生まれてほどなく亡くなっていたから、そればかりは救いかもしれない。

 ここに来たのが、六年前。後ろ盾のないわたしを、周囲の誰かが人買いに売ったのだと思う。殿様と仰がれるのは家臣に扶持を払うからだ。それができなければ価値がない。父が払えないものを娘のわたしから奪い取ったのだ。

 どのみち、あのままでいたらきっとわたしは生きてはいない。

 時の潮目が変わった。

 それまで秩序が渦に沈み、新たな時代が作られることだ。麒麟を持った人々が次代の支配を担うという。


 食事を終えて、立ち上がったところへ、声がかかった。楼主だ。

 「夕霧、こっちへおいで」

 と、帳場へ呼ぶ。

 こんなことはあまりなく、嫌な予感がした。

 長火鉢の上でしゅんしゅんと湯気が湯気を吹いている。その前に座る。先代の跡を継いで二年の楼主は、まだ二十四才と若い。大学出の優しい二枚目で、遊女には人気があった。

 「お茶をどう?」

 「いいです」

 お茶漬けにして二杯も食べた後だ。

 楼主は湯気の向こうで腕を組んだ。

 「高司様が亡くなられた」

 「え」

 「急にご病気が進んだとか。亡くなったのはひと月前になると連絡があった。良くしていただいた君には伝えないとね」

 「そんなに前に」

 「お家のしきたりで、外聞をはばかったそうだよ。ご葬儀も密葬に近いとか」

 何度も手紙を書いてもなしのつぶては当たり前だ。

 さんざんお世話になった人だ。大恩人と言っていい。最後に一目会って、せめてお礼を告げたかった。

 けれど、遊女の身でまさか華族様の葬儀には行けるはずがなかったと、納得もしている。ずしりとした寂しさで、胸が沈んだ。

 わたしはうつむいて、次の言葉を待った。

 食堂で紫にあおられたが、大きな支えを亡くしたわたしは、もう特等ではいられない。先代とは違い、若い感覚の楼主は優しいが、遊女を無駄に甘えさせることはしない。

 花魁は店への借金の他に日々の出費もかさむ。それがさらなる借金を産む。その清算のめどもないまま、引退ができるわけもない。

 「それでだね…」

 「喪の期間を数日下さい。高司のおじい様が、わたしの贔屓だったとは知られた話ですから」

 「ああ、そうだね。十日ほどあげようか?」

 わたしは首を振った。

 「三日で。遊郭は常識も世間とは違います。その後で、どなたかをあっせんして下さい。花魁を買って下さる方を」

 「それはいけない」

 楼主が顔の前で手を振る。その後で続く言葉に、わたしは目を見開いた。

 「高司様のご子息が、お父君を継いで、引き続き専属で君のお客様になって下さるとお知らせが来ている」

 「え」

 「ありがたいお話で、僕も驚いたよ。ご遺言だというから、よほど残した君が心配だったのだろうね」

 ほけほけと楼主は喜んだ。

 わたしは驚きと悲しみが混じり、また新たな展開にも胸がざわめいていた。

 話が終わり、帳場を出れば、聞き耳を立てていた者がいた。にらみつけてやってから、自室に下がった。

 高司様にはべることは、これまでと同じ。

 しかし、これまでとは違うと自分でもわかっていた。おじい様はわたしに手を触れなかったから。同じ布団で休むこともあったが、まるで幼い娘とその父のような他愛のないもの。

 「夕霧とはこれでいい。お前はわたしの知った人によく似ている」。

 あの人は、わたしに金をかけて愛でてくれただけだ。

 わたしは遊郭の遊女。その花魁でありながら、男を知らない。
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