隣の席の坂本くんが今日も私を笑わせてくる。
 
 『イルカショーをご覧いただき誠にありがとうございました。鞄や帽子など、お忘れ物はなさいませんよう──』

 何の会話もないまま、イルカショーの終了のアナウンスが流れる。

 観客が和気藹々と感想を語らいながら会場を後にする中、俺たちは未だその場から動けずにいた。

 いよいよ会場内が閑散としてきたところで、俺はようやく立ち上がった。今彼女がどんな顔をしているのか見ることすら怖くて、すぐに背を向ける。

 「……じゃあ、帰ろっか」

 階段を登ろうとした時だった。

 「──待って!」

 突然、左の手首を掴まれて立ち止まる。
 後ろを振り返ると、俺の手を掴んでいるのは、他の誰でもない、倉橋さんだった。

 彼女は顔を伏せたまま、蚊の鳴くような小さな声と共に、より深く頭を下げた。

 「……ごめんなさい」

 サッと血の気が引く。

 ……それは、俺を好きじゃない的な謝罪? 
 それとも、今日の態度に対する謝罪?
 どっ、どっちや? 

 分からんから、下手に口を挟めない。

 「せっかく、デートに誘ってくれたのに、嫌な態度取ってしまって……」
 「……(ヨッ、ヨカッタァーーーーー! そっちかぁーーーーーー!)」

 人知れず肩を撫で下ろす。気分は死刑宣告を免れた囚人だった。

 「……もしかして、体調悪かった?」

 俺の問いかけに、倉橋さんはフルフルと首を振った。

 顔を伏せた彼女のうなじが、ほんのり赤く染まっている。差し込む夕日の赤と混じり合って、境界線が曖昧になるほどに。

 「……自分でも、よく分からないんです」 

 ようやく、彼女が顔を上げた。

 赤く熟れた果実のように熱った頬と、不安げに俺だけ見つめる潤んだ瞳──彼女に掴まれた手の体温がなければ、自分に都合のいい夢を見ているんじゃないかと勘違いするくらい、彼女の表情全てが、“それ”を、物語っていた。

 「坂本くんといると……、自分の心臓じゃないみたいにど、ドキドキして……ちゃんと、目が合わせられない、だけ……です」

 彼女の言葉が何度も頭の中を反芻する。

 綿毛のように曖昧だった“それ”が、少しずつ実感に変わる。

 「そっ……………、かぁ」

 足の力が抜けて、俺はもう一度彼女の隣に座る。彼女の言葉が遅効性の毒のように、頭のてっぺんから、つま先まで巡っていく。

 自分の心臓じゃないみたいに、暴れ狂ってしょうがない。

 「……」
 「……」
 「ママ! ショーが終わったのに、あの人たちまだイチャイチャしてるよ?」
 「シッ! 邪魔するんじゃありません!」
 「……」
 「……」

 ……ああ、もう。
 さっきとは別の意味で、倉橋さんの顔が見れやん。

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