桜花彩麗伝
◇
「────というご様子で、たいそうお怒りになられて……」
玉漣殿に仕える女官から帆珠の様子を伝え聞いた春蘭たちは、思惑通りの展開に甘心した。
彼女自身は朔弦が配したこちら側の間者であり、玉漣殿の動きを報告するようおおせていた。
「マジで狙い通りじゃん。これで春蘭が懐妊でもしようもんなら、あいつ卒倒するんじゃね?」
満足気に笑った櫂秦が冗談めかして言う。
いかなるときも無神経なのはとうに分かっていたが、今回は特に看過できない。
眉をひそめた紫苑が咎めようとしたそのとき、朔弦はこともなげに「ああ」と頷いた。
「そうしてもらう」
「……えっ!?」
◇
普段より念を入れて身支度を整えた帆珠は、煌びやかな宝石の装飾が施された小箱を開けた。
てのひらにおさまるほどの大きさだが、深みのある甘い香りは酔いしれるほど確かに感じる。
「上等ね。さすがはお兄さま」
この麝香は航季に頼んで用意してもらった代物であった。
満足気に笑みをたたえると、練られた麝香を首筋に軽く塗る。ふわりとかぐわしい。
ぱたん、と小箱を閉めた帆珠は鏡に向かって微笑む。
完璧な美貌とそれを引き立てる華やかな装いに我ながら見惚れそうになった。
「千洛、行くわよ」
そばに控えていた彼女に呼びかけると、千洛は戸惑ったように目を瞬かせる。
「え? ど、どちらに……」
「決まってるじゃない。王のところよ」
連絡を入れることなく玉漣殿を出た帆珠は、王がいるであろう蒼龍殿を目指し宮中を闊歩した。
政務の最中であっても、麗しい妃がそばにいた方が捗るにちがいない。
(……そう、わたしは妃なのよ)
春蘭とたがわず、王の妃という立場にある。
それなのに、この待遇の差は何なのだろう。
王はきっと騙されている────毒婦でしかない春蘭にたぶらかされ、鳳家のためいいように利用されているのだ。
そうでなければおかしい。
この自分を差し置いて、あんな女が光を浴びるなどありえない。
まずは王の目を覚まさせなければ。
(王の心くらい、わたしならすぐ取り返せるわ)
そんなことを考えていた折、ふいに目の前を人影が横切った。
はっと顔を上げた帆珠の目に飛び込んできたのは、内官や護衛と連れ立って歩く長身の男の姿であった。
まとっているのは金糸で刺繍の施された龍袍。この国でそれに袖を通せるのはただひとりしかいない。
「主上!」
思わずそう呼んでから、嬉しさのあまり顔が綻んだ。
こんなところで邂逅を果たせるなど、運命的な予感を覚えざるを得ない。
「そなた……」
一方、振り向いて帆珠を認めた煌凌は、つい声と表情を引きらせてしまう。
しかし、幸いにも帆珠自身は気づいていないようであった。
弾むような足取りで歩み寄ってくると優雅に一礼してみせる。
清羽と菫礼は顔を見合わせ、それを合図にわずかに腰を折ったまま下がって控えた。
煌凌には“行かないでくれ”と無言で訴えかけられたが、清羽は苦く心苦しい表情で無視を決め込む。
後宮の一員として、あくまで妃である帆珠の存在を蔑ろにするわけにはいかなかった。
「ここでお会いできるなんて光栄ですわ。ちょうどいまお訪ねするところでしたの」
帆珠はいつになく喜ばしげに言葉を紡ぐ。
ようやく間近で目にかかった王は、遠目に眺めるよりも遥かに眉目秀麗で端然さが際立っていた。
惰弱な傀儡などという情けない評判のせいでこれまで印象が霞んでいたが、そう見限るには惜しいとさえ思えるほど。
帆珠もつい目を奪われる。
望まない婚姻ながら、彼や煌びやかな宮廷生活を引き換えに得られるのであれば決して不幸とは言えない。
「────というご様子で、たいそうお怒りになられて……」
玉漣殿に仕える女官から帆珠の様子を伝え聞いた春蘭たちは、思惑通りの展開に甘心した。
彼女自身は朔弦が配したこちら側の間者であり、玉漣殿の動きを報告するようおおせていた。
「マジで狙い通りじゃん。これで春蘭が懐妊でもしようもんなら、あいつ卒倒するんじゃね?」
満足気に笑った櫂秦が冗談めかして言う。
いかなるときも無神経なのはとうに分かっていたが、今回は特に看過できない。
眉をひそめた紫苑が咎めようとしたそのとき、朔弦はこともなげに「ああ」と頷いた。
「そうしてもらう」
「……えっ!?」
◇
普段より念を入れて身支度を整えた帆珠は、煌びやかな宝石の装飾が施された小箱を開けた。
てのひらにおさまるほどの大きさだが、深みのある甘い香りは酔いしれるほど確かに感じる。
「上等ね。さすがはお兄さま」
この麝香は航季に頼んで用意してもらった代物であった。
満足気に笑みをたたえると、練られた麝香を首筋に軽く塗る。ふわりとかぐわしい。
ぱたん、と小箱を閉めた帆珠は鏡に向かって微笑む。
完璧な美貌とそれを引き立てる華やかな装いに我ながら見惚れそうになった。
「千洛、行くわよ」
そばに控えていた彼女に呼びかけると、千洛は戸惑ったように目を瞬かせる。
「え? ど、どちらに……」
「決まってるじゃない。王のところよ」
連絡を入れることなく玉漣殿を出た帆珠は、王がいるであろう蒼龍殿を目指し宮中を闊歩した。
政務の最中であっても、麗しい妃がそばにいた方が捗るにちがいない。
(……そう、わたしは妃なのよ)
春蘭とたがわず、王の妃という立場にある。
それなのに、この待遇の差は何なのだろう。
王はきっと騙されている────毒婦でしかない春蘭にたぶらかされ、鳳家のためいいように利用されているのだ。
そうでなければおかしい。
この自分を差し置いて、あんな女が光を浴びるなどありえない。
まずは王の目を覚まさせなければ。
(王の心くらい、わたしならすぐ取り返せるわ)
そんなことを考えていた折、ふいに目の前を人影が横切った。
はっと顔を上げた帆珠の目に飛び込んできたのは、内官や護衛と連れ立って歩く長身の男の姿であった。
まとっているのは金糸で刺繍の施された龍袍。この国でそれに袖を通せるのはただひとりしかいない。
「主上!」
思わずそう呼んでから、嬉しさのあまり顔が綻んだ。
こんなところで邂逅を果たせるなど、運命的な予感を覚えざるを得ない。
「そなた……」
一方、振り向いて帆珠を認めた煌凌は、つい声と表情を引きらせてしまう。
しかし、幸いにも帆珠自身は気づいていないようであった。
弾むような足取りで歩み寄ってくると優雅に一礼してみせる。
清羽と菫礼は顔を見合わせ、それを合図にわずかに腰を折ったまま下がって控えた。
煌凌には“行かないでくれ”と無言で訴えかけられたが、清羽は苦く心苦しい表情で無視を決め込む。
後宮の一員として、あくまで妃である帆珠の存在を蔑ろにするわけにはいかなかった。
「ここでお会いできるなんて光栄ですわ。ちょうどいまお訪ねするところでしたの」
帆珠はいつになく喜ばしげに言葉を紡ぐ。
ようやく間近で目にかかった王は、遠目に眺めるよりも遥かに眉目秀麗で端然さが際立っていた。
惰弱な傀儡などという情けない評判のせいでこれまで印象が霞んでいたが、そう見限るには惜しいとさえ思えるほど。
帆珠もつい目を奪われる。
望まない婚姻ながら、彼や煌びやかな宮廷生活を引き換えに得られるのであれば決して不幸とは言えない。