桜花彩麗伝

「余を、か? 何か用でも……?」

 一方で煌凌はたまらず警戒を深めた。
 底知れず恐ろしいあの容燕の娘と相対し、意図が読めずに身構えてしまう。
 下手に扱うと容燕の怒りを買いかねない。

「冷たいことをおっしゃいますのね。わたくしがどれほど主上と会える日を待ちわびていたことか。入内してからただの一度も会いにきてくださらなかったでしょう」

「それは……」

「構いませんわ、もはや過ぎたことですから。これからはたくさんお会いできますよね」

 そう言った帆珠は煌凌の右手を取った。両手で包み込むようにして握り締める。
 驚いた煌凌はそのとき初めて、まともに帆珠の目を見た気がした。
 意思が固くしたたかなその色は父親によく似ている。

「もっと主上のことを知りたいのです。わたくしも主上の妻ですから」

 それを耳にするや否や、煌凌は思わず手を引っ込めていた。
 その反応の意味するところは“拒絶”でしかない。

 図太い性分ながら帆珠もさすがにそれを察し、ひとえに驚愕をあらわにする。
 何が起こったのか、一瞬分からなかった。あまりの衝撃から瞠目(どうもく)したまま立ち直れない。

「……すまぬ」

 妙な沈黙に耐えかねた煌凌は、消え入りそうな声でひとこと告げる。

 瞬間的に強い嫌悪感が込み上げたのだ。
 帆珠の口にした“妻”という言葉にも、握られた手の温もりにも、わざとらしいほど漂う甘い香りにも。

 この香りは昔から苦手であった────あたたかさの欠片もない、貼りつけたような継母の笑顔を思い出してしまうから。
 同じにおいがする。表面的な微笑みと心遣いに隠された、邪心を透かす嫌なにおいが。

 どうにか平静を取り戻した帆珠は、笑みをたたえようと口の端を持ち上げた。

「いいえ、わたくしの方こそ驚かせてしまってごめんなさい。でも……まだ不慣れなだけでしょう? ずっとこのままだなんて寂しいですわ」

 眉を下げつつ踏み込んだものの、煌凌の反応はやはり芳しくなかった。
 ふらりと顔を背けるように逸らし、表情を強張らせている。

「主上……?」

 たまらず呼びかけた声はひどく不安気に溶けていった。
 帆珠の絶対的な自信が揺らぐ。

「そなたを、傷つけたいわけではないのだ。しかし……余に期待しないでくれ」

 帆珠が自身の意思で会いにきたのか、容燕の指示で会いにきたのか、いずれにしても狙いはひとつしかない。
 煌凌を陥落(かんらく)して王を手中におさめることだ。王が帆珠を寵愛し、果てには子をなすことにほかならない。
 しかし、その“期待”には決して応えられない。あるいは帆珠の期待は別なところにも及んでいるかもしれないが、いずれにしても。

「……わたくしに、生涯ひとりでいろと?」

「そこまでは言わぬ。いつでも後宮を辞す許可を下そう」

 冷静を装いたくとも帆珠にそんな余裕はなかった。みるみる頬が引きつり、笑みさえ保てなくなる。

 ────こんなはずではなかった。
 王の目を覚まさせるどころではない。そもそも同じ土俵に立てもしないなど話にならない。

「どうして、そんな……」

 最後まで言葉が続かなかった。
 信じがたいのは、王の眼中にそもそも自分がいないということである。

「そなたがどう思おうと、そなたの父が何と言おうと、余の心はもう決まっている」
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