桜花彩麗伝
きびすを返した彼の背を、帆珠は呆然と見送った。
その言葉からして恐らく、これから会いにいくところかいましがた会ってきたところなのであろう────心に決めたというその相手に。
それもまた、ひとりしかいない。
「…………」
きつく口の端を結んだ帆珠は強く両手を握り締めた。
完全に虚仮にされたも同然であった。春蘭に、鳳家に、そして王に。
それでも、湧き上がったのは怒りよりも悲しみにほかならない。
そのことにひどく戸惑った。こんな感情は生まれて初めてだ。
これまで誰かに拒まれたことなど一度たりともなかった。求めたものを得られなかったことも、自身が優先されなかったことも。
味わったことのない屈辱と痛みに心を貫かれる。
「……っ」
気づけば滲んでいた涙をこぼさないようこらえる。
そうしたのは、帆珠のせめてもの矜恃であった。
なおも折れずに彼を追い求めるだけの気力は、しばらく湧きそうにない。
◇
ひと月足らずの時が経った頃、青ざめた顔の千洛は一心不乱で宮廷を駆け抜ける。
玉漣殿へ飛び込むと、帆珠のもとへ急いだ。
「淑妃さま、一大事です!」
「何よ、もう。騒々しいわね」
「鳳婕妤が懐妊したと……!」
震える声で紡がれた言葉を瞬時には理解できず、一拍ほうけた帆珠は目眩を覚え、たたらを踏んだ。
恐らくそのときも遠くないと絶えず焦燥感に苛まれてきたが、ついに現実となってしまったようだ。
一度、愕然と放心すると瞬く間に虚無感に飲まれていく。
無力感や敗北感を肥やしに巣食った憎しみが怒りとなり、失意の果てに感情が凪いだ。
「……は」
乾いた冷ややかな笑いをこぼし、項垂れた頭をもたげる。
きつく握り締めていた拳を開くと、てのひらには血が滲んでいた。
後宮へ来てから、悔しさや苛立ちを覚えるたびそうする癖がついてしまい、てのひらは以前より硬くなった。それでも三日月型の傷が絶えることはない。
鏡台の引き出しを開け、奥底に押し込んでいた薬包を取り出した。
ひと月ほど前、王の春蘭への傾倒ぶりを危ぶんだ帆珠が航季に頼み、手配してもらったのは麝香だけではなかった。
「……千洛」
「は、はい……」
いつにない気迫に戦々恐々としながら、千洛は帆珠の次の言葉を待った。
「給仕の女官を使って、これをあの女の食事に盛りなさい」
◇
鳳婕妤が懐妊した────その話を聞きつけ、さすがの元明も桜花殿へと駆けつけた。
煌凌と春蘭が顔を揃えていたお陰で信憑性が増したが、当の春蘭は全力でかぶりを振って否定した。
「……なんだ。ということは、今回もまた噂がひとり歩きしているのかい?」
「うーん、まあ……そういう策略で」
不承不承といった具合に頷いた春蘭は、やや大げさなため息をついてみせる。
あのとき、櫂秦の言葉に首肯した朔弦には驚くと同時に焦ったが、あくまでこれは“偽装妊娠”であった。
実際には身ごもってなどおらず、ただ噂を流したに過ぎない。
しかし、王が毎夜のごとく桜花殿へ通い詰めていたことは周知の事実であり、そんな確かな布石を打ってきたお陰で完璧なまでの信憑性を帯びていた。
実情をあずかり知らない人物には疑う余地もない。