桜花彩麗伝
それを受け、光祥は神妙な様子で眉を寄せる。
「蕭帆珠が冷宮送りになってしばらく安泰かと思ったのに、また後宮が荒れそうだね。春蘭がその波に揉まれなきゃいいけど」
「ある意味、太后を追い込む好機でしょう。この無名なる人物の意図次第ですが」
────ほどなく堂をあとにした光祥を、男は遠目に捉えた。
何気なく認めたが、その姿に驚愕して釘づけになる。
最後に見たのは彼がまだ年端もいかぬ少年だった頃────あれから十年近くは経過しているにも関わらず、不思議とひと目で確信を得た。
素朴な身なりで下町の平民を装っているが、まとっている並々ならぬ気品までは覆い難いようだ。
高尚な彼の優美で秀麗な顔には、確かな面影があった。先王陛下と“嘉嬪”ならぬ彼の母の。
「王太子さま……?」
男の口からひとりでにこぼれ落ちる。
その声は遥か高くの蒼穹へと吸い込まれていった。
◇
とさ、と煌凌は手にしていた書物を卓子の上に置いた。表紙に記されたその題は“胡蝶伝”。
固く口を噤んだまま俯いた王を見やり、悠景と朔弦は目を見交わした。
悠景は険しい面持ちで腕を組む。
「……覚えのある内容だ。小説なんて言ってるが、史実にほかならねぇ」
「ええ、先の王室で起こった事件そのものです。これが“あの件”の全容でしょう」
その言葉に、煌凌はふと重たげに顔をもたげる。
『────太后さま。“あの件”について、既に調べはついています。陛下も全容をご存知です』
悠景もまた以前交わしたやり取りを回顧した。
『“あの件”っていったい何ですか』
幾度となくほのめかされてきた一件の真相は、太后と容燕の手により闇に葬られたかに思われたが、突如として白日の下に晒されることとなったのである。
作中の主人公は間違いなく太后である張玲茗を題材にしており、彼女に手を貸した重臣はほかならぬ容燕を示していることは推測に易い。
「……しかし、なぜだ。当時を知る者は根絶やしにされたのではないのか?」
不可解そうに煌凌が尋ねる。悠景も「確かに」と同調した。
邪悪なかのふたりが口封じとして、当人以外のほとんどすべての人物を抹殺したために、くだんの旧悪はこれまで徹底的に掩蔽されてきた。
いったい、誰が事の次第を暴露することができると言うのであろうか。
「俺はおまえが書いたんだと思ってたけどな」
悠景は朔弦に目をやりながら言った。その考えは煌凌にも理解できる。
妃選びより前、王への審査権分与を勝ち取るべく、彼は“あの件”を出しに太后を脅迫してのけた。
だからこそありうる可能性に思われたが、朔弦は首を横に振る。
「……いいえ、残念ながら。しかし、正直に申してよいのであれば、ひとつ気がかりなことが」