桜花彩麗伝

 思いのほか平静と見て取れたことで芙蓉はたじろいだ。
 もっと春蘭を揺さぶり、感情的にさせた上で醜態(しゅうたい)を晒してやろうという思惑であったが、出鼻をくじかれる。

「もちろん……貴妃さまには礼を尽くしていますよ。でも、彼らは後宮の一員じゃありませんから」

「わたしの配下にあることは確かよ。侮辱(ぶじょく)することは許さないわ」

 凜然たる表情と真っ当な言葉を受け、芙蓉はそれ以上の反論を失う。
 決まりが悪くなり、形式だけの一礼を残すと陽龍殿へと進んでいった。
 思わず目で追うと、彼女は取り次ぎを経て迎え入れられる。

「…………」

 ゆっくりと扉が閉まった。
 傷ついたように唇を噛み締めた春蘭は、目を伏せ顔を背ける。

 事情が変わり、状況も一転した。
 先ほどのように芙蓉の不遜(ふそん)な態度を咎めたところで、それは憂さ晴らしや八つ当たりでしかないのかもしれない。
 現にいま、煌凌の心にいるのは芙蓉なのだと、見せつけられたような気がした。



 日が暮れた頃、朔弦が桜花殿を(おとな)った。
 円卓を囲んで腰を下ろすが、自ずと湿っぽい沈黙が落ちる。
 手つかずの茶から湯気が立ち上るのを、春蘭はわけもなく眺めていた。

「……陛下とは話したか?」

「いえ……会ってくれませんでした。わたしに話すことはない、と」

 言いながら、声が途切れるように消えていく。
 冷ややかな現実に晒されるほど、過去があたたかく煌めきを帯びていった。

 彼が芙蓉を後宮へ召し上げたのは、好意を抱いたというのが唯一にして最大の理由であろう。
 そもそも自分とはかりそめの夫婦(めおと)であった。もともとは陥れられた父を救い、鳳家勢力を助長させるための入内(じゅだい)であったのだ。
 周囲へ訴えかけるべく仲睦まじいふりを続けていたのが、そのせいでいつの間にか勘違いしてしまった。
 彼に必要とされている、と。彼には自分が必要である、と。

 いずれ終わりが来ることは覚悟していたはずだった。
 この座を追われるか、自ら後宮を辞して町へ降りるか、いずれにしても、いつか迎えられる本物の妃に居場所を譲り渡す日が来ることは承知していた。
 しかし、こんなはずではなかった。
 こんなふうに終わりを迎えるなんて。

 そう思ってしまうのは、芙蓉の存在を認め難いのは、わがままな未練であろうか。
 まさかこんな形で自分の心と向き合うことになろうとは思わなかった。
 自分は果たして、いつの間にこれほど────。

「……っ」

 目の前が滲んで溶け、涙が浮かんでいることに遅れて気がついた。
 蝋燭(ろうそく)の灯りがゆらゆらとぼやけ、眩しく散る。
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