桜花彩麗伝

「十分ありうるな」

 頷いた悠景はしかし、手放しで甘心(かんしん)できない心持ちであった。
 もともとくだんの件について嗅ぎ回っていたのが莞永だとすると、朔弦もまたとうに目をつけていたはずである。
 莞永が独断で動くとは思えず、朔弦からの働きかけに応じたと考えるのが妥当だ。

 しかし、悠景の意を知りながら、朔弦は何も言わなかった。
 もしかすると、彼も鳳家に取り込まれているのかもしれない。あの左袒(さたん)ぶりは彼自身の本意であるのかもしれない。
 悠景の胸に一抹(いちまつ)の疑念がよぎる。それは尾を引いて滞留(たいりゅう)し、徐々に存在感を増していく。
 これまで幾度となく聡明(そうめい)な甥の力を借りてきたが、こたびばかりはそれが得策とは言えないかもしれなかった。
 同志として手を携えるにあたっては、旺靖を利用した方が賢明と言える。

「失礼します、謝大将軍」

 唐突に部下の声が響いてきたかと思うと、返事を待つことなく扉が開いた。
 彼はどことなく慌てた様子で困った顔をしている。

「どうした?」

「あの、官衙でちょっと問題が────」

 (いわ)く、収監(しゅうかん)されていた罪人たちが牢から一斉に消えたという。
 いなくなった者はみな、以前より口を揃えて無実を訴えていた。
 誰かが密かに彼らを逃がしたのかもしれない。

「実は前々からちょくちょくこんなことがあったんですが、こうも大々的なのは初めてで……」

「なんだ、そんなことか。それなら錦衣衛に手を回させろ。悪ぃが、俺たちは管轄外だ」

 そう一蹴(いっしゅう)した悠景に対し、旺靖は訝しむように眉をひそめる。
 以前から、人知れず無実の罪人たちを逃がす手引きをしている者がいたとなると、その人物は明確に何らかの目的を持って動いている可能性が高い。
 ただの牢破りではないかもしれない。
 得体の知れない波乱が待ち受けている予感がした。



     ◇



 はらりと枯れ枝から葉が舞い落ち、冬の気配を運ぶ風がそよぐ。
 雅趣(がしゅ)禁苑(きんえん)の色彩はだんだんと薄らいできたが、透き通った空気が新鮮に澄み渡り、その風景を締めていた。

 春蘭と煌凌は手を繋いだまま、ゆったりとした足取りで鏡池のそばを散策していた。
 春を待つ桜の木の下で立ち止まると、煌凌は背に隠し持っていた花を差し出す。

「……そなたにと思って、摘んできた」

 淡い桃色の花が房状に連なるそれは紫羅欄花(あらせいとう)であった。
 可憐に咲く花からふわりと甘い芳香(ほうこう)が漂い、春蘭は顔を綻ばせながら受け取る。

「綺麗ね……。ありがと、部屋に飾るわ」

 花そのものだけでなく、自分のためにしてくれたことが嬉しい。
 自分のことを考えてくれていた時間を想像すると、心から愛しく思えた。
 喜ぶ姿を見て彼女以上に嬉しくなった煌凌は表情を和らげ、(いつく)しむように春蘭を見つめる。
 ひとりぼっちで(うずくま)っていた頃は想像もつかなかった。誰かを想い、求め、同じ分だけ必要とされる幸せがどれほどのものか。
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