桜花彩麗伝

「春蘭、手を出してくれ」

 おもむろに(ふところ)から何かを取り出すと、煌凌はそう言った。
 唐突な言葉にきょとんとしながらも言われた通りにすると、優しく左手を取られる。
 ────満開の桜を思わせる紅水晶の指輪が、そっと薬指にはめられた。陽光を弾き、ほんのりと柔らかく光る。

「わ、素敵……」

 手をかざすように眺め、春蘭は思わず呟く。

「……かりそめの夫婦(めおと)じゃもう嫌だ。そんな寂しくてもの足りぬ関係は終わりにしよう」

 思わぬ言葉に彼を見あげると、煌凌に真剣な眼差しを注がれた。

「そなたと生涯をともにしたい。本気でそう思っている。これは、わたしの気持ちだ」

「煌凌……」

「そう遠くないうちに、そなたを正式な王妃に迎えたいと思っている。あるいは町へ降りたいなら、わたしも玉座を返上してともに行く」

 揺らがない双眸(そうぼう)は彼の覚悟を物語っていた。
 あえて“余”という一人称を使わなかった意味を理解し、それほどまでに深い情愛と強い意志を()み取った春蘭は満たされる反面、複雑な心境に陥る。

 ────後宮へ来た目的は果たした。与えられた役目は全うした。
 邪悪な蕭家を排斥(はいせき)し、鳳家を立て直した。王の親政(しんせい)が叶ったことで、日に日に彼の名声も高まっている。
 これ以上、ここへ留まることは春蘭自身のわがままでしかない。未練かもしれない。
 それでも、必要とされることが、愛されることが、何より嬉しくて心地よかった。ここが自分の居場所であると実感していた。
 だから、彼のそばを離れることなど考えられない。少なくともいまは。

 春蘭はやわく笑みながらかぶりを振った。

「なに言ってるの。冗談はいいわよ」

 正妃の話はともかく、王を辞すなどと軽々しく口にして欲しくなかった。
 これまで長い歳月をかけて守り抜いてきた玉座を、自分のためだけに手放す判断は決して褒められるものではない。
 あまりにも短絡的で、数多(あまた)の努力と犠牲が無駄となってしまう。
 聖君(せいくん)を志している彼を愚行(ぐこう)に走らせては元も子もなかった。春蘭の存在意義すら否定されることとなる。
 いつか、朔弦が言っていたことが頭をよぎる────一国の王ともあろう者が“平凡”を望むことは罪だ、と。

 煌凌は少しく口を噤み、ややあって目を伏せ笑った。
 言わんとすることを悟り、自身を(いまし)めるべく「……そうだな」と小さく呟く。

「余は王だ」
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