桜花彩麗伝

「落ち着いてください、大将軍。まだ焦る段階じゃありません」

 あくまで旺靖は冷静さを損なっていなかった。余裕に満ちた態度で几案(きあん)に手をつく。

「鳳家ほど強大な相手を、たった一撃で沈められるとは(はな)から思ってません。とっておきの切り札があります」

「……切り札だと?」

 片眉を上げた悠景に「はい」と頷き、口端を持ち上げた。

「宮外に出た親王────。奴の存在を利用しましょう」



     ◇



 王は果たして宋妟に鳳家別邸での軟禁(なんきん)を申し渡し、侍医による手当てを受けさせた上で釈放した。
 それは牢破りに対しての処罰であり、十年前の罪状に関しては完全に不問に付した。
 朔弦と同様の所感を抱き、宋妟を有罪であると見立てるには決め手に欠けたためである。
 蕭家の性質をよく理解している王にとっては、彼自身の主張は信じるに値した。

 軽罰で済んだのはその境遇に同情の余地があることに加え、殺人などの重罰を犯していなかったこと、ほかでもない元明が情状酌量を訴えたゆえであった。

 ────満身創痍(まんしんそうい)の宋妟はふと、重たげな歩みを止める。
 顔を上げた先に懐かしい姿を認めた。

「兄上……?」

 そう呼ばれた元明は思わずくしゃりと顔を歪め、その目に涙を浮かべる。
 もう二度とそんなふうに呼ばれることはないと思っていた。
 そろそろと歩み寄り、弟を抱き締める。

「……生きていてくれてありがとう」

 命があったとて決して気楽な十年ではなかったことであろう。
 (いわ)れのない罪で追われ続け、現状に煩悶(はんもん)し、日夜気の休まる瞬間などなかったはずである。
 死を装い、春蘭が堂に(かくま)ったことでいくらか危機は去ったが、安穏が訪れることはなかった。
 本来であれば縁遠い隠遁(いんとん)生活を突如として()いられ、己を殺すほかなかった────想像を絶する、耐え難い辛酸(しんさん)であったにちがいない。
 それでも、彼がひとりで背負い、生き延びてくれたからこそ鳳家は救われた。
 果断(かだん)に富んだ智勇兼備(ちゆうけんび)な彼が、家門の命運を繋ぎ守ってくれた。

「辛く苦しい日々だっただろう……。力になれずすまなかった」

 元明は絶えず宋妟の無実を信じ続けてきた。それ以外にできることなどなかった。

「……いいえ。素性を明かせずとも、春蘭を守ることが結果的に鳳家や兄上を支えることに繋がると信じていました。その使命を全うすれば、辛くなどなかった」
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