失くしたあなたの物語、ここにあります
 ちょっと羨ましい。詩音さんを見ると浮かぶ感情は、嫉妬だろう。沙代子も鶴川に残って育っていたら、詩音さんと天草さんが恋に落ちることはなかったのだろうかと考えずにはいられない。

「あれから、志貴には会ってる?」

 詩音さんは当然のように、彼とのことを尋ねてきた。

「それはもちろん。パティスリーのオープンに向けて、天草さんのご家族には助けてもらってるんです」
「そう。天草のおじさんとおばさん、いい人だものね。葵さん……あなたのお父さんと仲良くしてて、心ないうわさなんて全然気にしない人たちなんだって思ったわ」
「それは、父が農園のお客さんだったから」
「そうね。でも、それだけじゃないでしょう? 葵さんはいい人だったもの」

 葵さんは、と強調したように感じた。

 沙代子には言わないが、天草家の人々は宮寺院長とも仲良くしていたのではないだろうか。分け隔てのない愛情を誰にでも注ぐ一家のような気がして、そう思う。

 宮寺院長はどんな人なんだろうか。沙代子は小さい頃、宮寺内科を受診したことがあったが、あまりよく覚えていない。

「私は……離れて暮らしていたから、あまり父を知らないんです。詩音さんのお父さんがどういう方かも知りません」
「私の父のことはいいの。どちらかというと軽蔑してるから、どう思われてても気にしない」

 沙代子がハッと息をのむと、彼女は複雑そうな笑みを浮かべて、くすりと笑う。

「私ね、志貴はタイプじゃなかったのよ」

 父親の話はしたくないと、明確な意思表示をするように、彼女はそう言った。
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