🍞 ブレッド 🍞 ~フィレンツェとニューヨークとパンと恋と夢と未来の物語~【新編集版】
 演奏が終わったと同時に拍手をすると、それが思いがけなかったのか照れたように笑ったが、「彼のトランペットと俺のサックスで共演するのが夢なんだ」と表情を引き締め、必ず実現させてみせるというように頷いてからサックスを置いてソファに座った。
 すると、それを待っていたかのように次の曲が始まった。
『THE VERY THOUGHT OF YOU』
 しっとりと甘いPAULA(ポーラ) COLE(コール)の声に思わず聴き惚れてしまったが、また曲が変わってミュートしたトランペットが流れ出すと、それをバックにアンドレアがぽつんと呟いた。

「本当はバークリーに行きたかったんだけどね」

 バークリー音楽大学はジュリアード音楽院と並ぶ若手演奏家垂涎(すいぜん)の学びの園であり、クラシック系で名を馳せているジュリアードに対してジャズ系ではナンバーワンと言われているところで、数多くの有名ジャズミュージシャンを輩出しているだけでなく、200人を超える卒業生がグラミー賞を獲得している。

「サダオ・ワタナベも卒業生だよ」

「えっ、そうなの?」

 渡辺貞夫の名前を聞いてちょっと驚いたが、それよりも、バークリーを諦めたことに対する関心の方が強かった。

「行きたかったら行けばよかったのに」

 ジュリアードに入れる実力があるのならバークリーでも大丈夫なはずだが、理由は別のところにあった。

「バークリーはボストンにあるから、ここからは通えないんだ」

 ニューヨークからアムトラック(長距離旅客列車)で3時間半もかかるボストンに通うことは不可能だと首を振った。

「部屋を借りて一人で生活するとなると、とんでもないお金が要るしね」

 少なくとも年間1,000万円はかかるのだという。

「ちっぽけなベーカリーの息子がそんなことできるわけないからね」

 アンドレアの顔が一瞬曇ったが、それはすぐに羨むようなものに変わった。

「ユズルはいいよね。親の金で留学させてもらっているんだろ」

 その通りだった。
 1,000万円よりは少なかったが、それでも多額な費用を負担してもらっているのは事実だった。
 弦が望んだことではないにしても。

「あ~ぁ、親がウォール・ストリートの偉いさんだったらな~」

 ウォール街で働く人たちの平均年収は5,000万円くらいで、経営者なら何億、何十億というのが当たり前なのだという。
 それだけあれば1,000万円は軽く出してもらえるのに、と羨ましそうな口調で嘆いた。

「そんなこと言うもんじゃないよ。ご両親がこんなに立派なベーカリーを経営しているんだし、そのお陰でジュリアードに行かせてもらっているんだから」

「まあ、そうだけどね。でも、俺の友達は金持ちだらけだからさ」

 バークリーに行かせてもらっている友人が何人もいるから、ついつい比べてしまうのだという。

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