買われた花嫁は冷徹CEOに息もつけぬほど愛される
 芽衣子を騙しているという多少の気まずさはあっても、気心の知れた友達とのお喋りは楽しいもので、実音にとってはいい気分転換になった。
 海翔の言いつけを守ってタクシーで彼と暮らすマンションに戻ってきた実音は、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
 食事をしながら少しアルコールを飲んだせいか、体がふわふわする。
 冷えたペットボトルを首筋に当てて、その冷たさを楽しんでいると、リビングに置いてあったバッグの中でスマホが鳴るのが聞こえた。
 メッセージではなく、通話の着信を告げる音に、慌ててスマホを取り出した実音は、画面を確認して一瞬動きを止めた。
 表示されている名前は『奏太』とある。
 普段、電話を嫌い、用事がある時は簡潔なメールを送ってくる兄からの着信に、否応なしに緊張が走る。
(お兄様、日本に帰ってきた?)
 数ヶ月は日本に帰れないと言っていたが、なにか予定変更があったのかもしれない。
 画面の上で指をスライドさせて、実音はスマホに話しかけた。
「もしもし、どうしたの?」
『お前、結婚したって、どういうことだ』
 開口一番、奏太が言う。
 兄には、帰国してから海翔とのことは話すつもりでいたのだけど、何処からかその情報が耳に入ってしまったらしい。
「あ、えっと……結婚したって言っても、式はまだだし……それに、相手、遼介さんじゃないよ」
 普段淡々としている兄にしては珍しい、怒りを感じさせる声音に、ついしどろもどろになってしまう。
 実音の説明に、奏太が深いため息を吐く。
『父さんから聞いた。実音の会社の経営者なんだろ。略歴も調べた。……悪いが、父さんが娘婿に欲しがるタイプの人間には思えない。お前は、融資を受けるために結婚したのか?』
 改めて海翔の経歴を眺めているのか、少しの間を置いて奏太が言う。
 確かに二人の父は、家柄重視の人間で、海翔のような一代で財を成した人を成金と呼んで嘲るような人だ。
 そんな父が、あっさりふたりの結婚を認めたのだから、その理由くらい簡単に想像がついてしまうのだろう。
 実音が応えられずにいると、奏太が『図星だな』と深く息を吐く。
『父さんから資金繰りの目処が立ったと急に連絡があって、金の出所を追及したら、お前の結婚のことを白状したよ。父さんは、お前が破談になったと聞きつけたヤガミのCEOが是非自分の嫁にしたいと懇願されて、その情にほだされたなんて言ってるが、どうせ嘘なんだろ』
 淡々と話す兄の言葉で、実音にも事情が飲み込めてきた。
 奏太には、帰国するまで実音の結婚の件を隠しておこうと決めていた。だけど、会社の建て直しの陣頭指揮を取っている奏太が父から融資の目処がついたと報告を受ければ、融資してくれた先を確認するだろう。
 そして頭のいい兄には、ヤガミからの融資と知り、おおよその状況が理解できたのだ。
 どう話せば兄が安心してくれるだろうかと、思考を巡らせていると、奏太が深いため息を吐く。
『この間も言ったが、会社のことは、お前に関係ない。今すぐ別れろ』
「違うからっ!」
 別れろという兄の言葉に、咄嗟に言い返す。
 普段とは違う実音の反応に驚いたのか、奏太が黙る。
「確かに急な結婚だったけど、私は、ずっと海翔さんのことが好きだったの。小さい頃から結婚相手が決まっていたから、他の誰かを好きになっちゃいけないと思って気持ちに蓋をしていたけど、海翔さんのさりげなく部下を気遣う態度とか、社会的地位があっても奢ったところがなくて気さくな性格とか、一緒に仕事をしてどんどん惹かれていっていたの」
 いつからかと聞かれれば、正直、それはよくわからない。
 空に浮かぶ月がゆっくりと満ちていくように、彼の傍らにいることで、徐々に好きだという思いが溢れてきていた。
 強いて言うのであれば、食事をした帰り道、綺麗な月を見上げた彼が『I love you』と口にした時に、彼への思いが決定的なものになったような気がする。
 そしてその思いは、彼と一緒に暮らすようになって増すばかりだ。
「確かに勢いで結婚したようなところはあるけど、すごくよくしてもらっていて、私なんかに……って、申し訳なくなるくらい大事にしてもらっているよ」
『お前は、幸せなのか?』
 実音の話を黙って聞いていた奏太の質問に、すぐには答えられなかった。
 彼に不満を持つなんて許されないと思うのに、愛されていないことを悲しく思ってしまう自分がいる。
 実音が返事できずにいると、奏太が深い息を吐く。
『幸せな結婚と思ってないなら、今すぐ離婚しろ』
「離婚しろって……」
『一度、早めに日本に戻る。その時に話を聞く』
 それだけ言うと、兄は一方的に話を終わらせた。
「……実音?」
 通話の途切れたスマホを黙って見つめていると、背後から名前を呼ばれて実音は肩を跳ねさせた。
 驚いてふり向くと、リビングの戸口に海翔が立っていた。
「海翔さん、お帰りなさい。すみません、帰ってきたのに気付いていませんでした」
 スマホを傍らのテーブルに伏せて置く実音は、彼へと歩み寄り、手にしていたビジネスバッグを受け取る。
「誰かと電話してた?」
 実音にバッグを預け、スーツのジャケットを脱ぐ海翔は、テーブルに置かれいてる彼女のスマホに視線を向けた。
「……」
 さっきの会話を思い返すと、兄と話していたと言いにくい。
 実音が応えずにいると、海翔は気にした様子もなく話題を変える。
「川根産との食事は、楽しかった?」
 そう言われて、大事なことを思いだした。
「そうだ。支払い、ありがとうございます」
 始まれたように顔を上げてお礼を言う実音に、海翔は優しく目を細める。
「楽しい時間を過ごせたならそれでいい。実音も、今帰ってきたところ?」
「はい」
「俺は少し仕事するから、お風呂とか先に使って。時間がかかると思うから、先に寝てもらってかまわない」
 そう話す海翔は、脱いだジャケットを腕に掛けると、実音に預けていたビジネスバッグを引き取る。
「海翔さん」
 実音が思わずといった感じで、そのまま部屋を出て行こうとする彼の名前を呼んだ。
 その声に、海翔は動きを止めて、視線をこちらへと向けた。
「なにか、怒ってます?」
 その質問に、相手はなにを言われているのかわからないといった感じで首をかたむける。
「どうして?」
 本気で、実音がなにを言っているかわからないという表情だ。
 そんなふうに聞かれると、実音もうまく説明できない。
 穏やかに話す口調はいつものままなのだけど、なんていうか、彼の纏う空気がいつもと違うのだ。
 とはいえ、その説明を求められると、うまく言葉にすることができない。
「なんでもないです」
 実音が首を横に振ると、海翔は小さく肩をすくめてリビングを出ていった。
< 30 / 48 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop