『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】


 釧路での取材を終えて、根室へ移動した。知床岬に比べて知名度が低い納沙布(のさっぷ)(みさき)を取材するためだ。
 駅に着いて気づいたが、根室駅は〈日本最東端有人駅〉らしい。男は東京に住んでいるので最東端という言葉に反応することはないが、最西端の佐世保に住んでいる人がこの地を訪れたら感慨深いだろうなと思ったりした。
 
 駅前ターミナルの1番乗り場から路線バスに乗った。牧草地や海を見ながら揺られること45分、目的地の納沙布岬に到着してバスを降りた。

 出迎えてくれたのは、強くて冷たすぎる風だった。防寒着を着ていても震えるほどの寒さに立ちすくんだが、大きなモニュメントに気がついて近寄った。北方領土返還と平和を祈ったモニュメントが海を見つめていた。その視線の先を追うと、(はぼ)(まい)群島(ぐんとう)が見えた。日本固有の領土だった島々だ。しかし、今そこに住んでいる日本人は誰もいない。

 1945年8月9日、まだ有効だった日ソ中立条約を破棄してソ連が対日参戦し、9月初めにかけて北方四島をすべて占領してしまった。その時、島々には1万7千人の日本人がいたが、ソ連によって強制退去させられ、今に至るまで不法占拠が続いている。
 
 歴代の総理大臣がこの問題を解決するために何度も交渉したようだが、75年近い月日が経った今も不法占拠問題は解決していない。それどころか、ロシアによって既成事実化され、日本に返還される目処はまったく立っていない。不法占拠前にゼロだったロシア人が1万8千人を超えた今では、多額の開発費が投入され、インフラと共にビジネス環境の整備が行われている。歴史を巻き戻さないための断固とした政治姿勢が示されているのだ。残念ながら、解決の道は完全に閉ざされていると言わざるを得ない。
 
 男はスマホで外務省のホームページを見ながら、この75年間の日ソ、日ロの置かれた状況に思いを馳せた。
 
 何度もチャンスがあったのに……、
 
 多くの人の無念を思うと胸が痛くなったが、ふとアラスカのことが頭に浮かんだ。

 アメリカが買い取った時のことを知りたくなってスマホで検索をすると、1867年に720万ドルで購入したとある。もちろん、これはロシア帝国時代の話であり、現代に当てはめることはできない。しかし、日本にもそのチャンスがあったのではないかと思うのは自然な感情ではないだろうか。
 
 1968年に世界第2位の経済大国になった日本は、1990年代、アメリカの魂とも言われるロックフェラーセンターやエンパイア・ステート・ビルを次々に購入した。正に破竹の勢いで〈ジャパン・アズ・ナンバー・ワン〉を実現していったのだ。

 その時代に何故北方四島を購入しようとしなかったのか? 

 当時、ゴルバチョフが大統領を務めていたソ連は〈ペレストロイカ(再建)〉という名の改革を進めていた。しかし、その改革は成功したとはいえず、国内は混乱し、対外的にも急速に影響力を失っていた。その証に、当時の西ドイツ首相、ヘルムート・コールによる巨額の対ソ連経済支援を受け入れる代わりに、ドイツ再統一に承認を与えているのだ。
 
 そのゴルバチョフが1991年4月に日本を訪れている。

 何故、日本はコール首相と同じことをしなかったのだろうか? 
 巨額の対ソ連経済支援をする代わりに北方四島を返還させる交渉をしなかったのだろうか? 
 求心力が低下していた彼なら受け入れた可能性があるのではないか? 
 固有の領土という文言に拘らず、相手のメンツを立てながら臨機応変に対応していたら、大きな進展があったのではないだろうか?
〈機を見るに敏〉という言葉もあるではないか。

 外交のど素人の勝手な憶測だが、それが実現していたらと思うと、残念でならない。

 再び海を見た。渡ることのできない目の前の海を見た。

 もし、この海の先にある北方四島が日本の領土だったらどんなに素晴らしい観光地になるだろうか?

 男は旅行代理店の経営者としての目で見ていた。豊かな自然と漁場を組み合わせた観光プランを頭の中で組み立てていた。一大リゾート地になる可能性が無限にある。それは間違いのない事実だと思った。

 勿体ない……、

 悔しい思いで唇を噛んだ。それは、無理矢理退去させられた当時の日本人の無念と重なっているように思えた。もしかしたら、自分たちの故郷がどんどん発展していく姿を見られたかもしれないのだ。しかし、そうはならなかった。目の前の海は75年間彼らを拒み続けたのだ。
 
 どうしようもない……、
 
 虚ろに海を見つめていると、里帰りを待ち望みながら亡くなっていった方々の無念の溜息が聞こえたような気がした。その冷え冷えとした溜息は極寒の海の上を風に流されて消えていった。

< 16 / 269 >

この作品をシェア

pagetop