『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 根室での取材を終えた男は、次の訪問地、網走に向かおうとしていた。直接行ける列車はないので、一度釧路に戻ってから列車を乗り換えることになる。本数がないので最短でも6時間強かかってしまうが、他に選択肢がないので仕方がない。
 
 昼前に出て夕方着く便に乗り込んだが、着く頃にはもう真っ暗になっているに違いない。宿は確保しているから、駅に着いたらすぐに夕食の場所へ急がなければならない。
 
 行くところは決めている。今日はガッツリ肉を食う。釧路、根室と海鮮料理を堪能したから、今日は肉なのだ。
 
 17時過ぎに網走駅に着いた。予想通り真っ暗だった。それに、結構な雪が降っていた。それも、横殴りのような状態だったので、ホテルでしばらく様子を見ることにした。
 しかし、1時間待っても変化はなかった。意中の店を頭から消し、ホテルのレストランで知床和牛セットと赤ワインを注文した。

 期待せずに肉を口に入れた。ところが、意外にもそこそこ(・・・・)美味しかった。焼き加減といい、控え目な味付けといい、十分満足のいくレベルだった。そのせいか、赤ワインが進んでほろ酔い気分になり、いい気持ちで部屋に戻った。

 シャワーを浴びて、テレビを付けた途端、目に飛び込んできたのは未知のウイルスのニュースだった。中国の湖北省武漢市で発生した新型コロナウイルスで初めての死者が出たらしい。年末からその関連のニュースに接してはいたが、2003年に発生して大騒ぎしたSARSウイルスと同じく日本には関係ないだろうと高を括っていた。
 SARSは世界で8,000人以上が罹患し、700人以上の死者が出たが、日本で広がることはなく、感染例さえなかった。今度も日本にはほとんど影響はないだろうとそのニュースをやり過ごして、チャンネルを変えた。
 
 翌朝、目が覚めた時には新型コロナのコの字も頭に残っていなかった。しかし、網走の取材中に日本でも感染例が出たという報道に接して驚いた。SARSと違って日本でも感染例が出たのだ。武漢市での滞在経験がある30代の男性で、帰国後発症したらしい。

 その後、各地での取材を終えて札幌のホテルに泊まっている時、写真や取材ノートの整理を済ませて寛いでニュースを見ていたら、「北海道で初めての感染者が出ました」とキャスターが深刻な表情で伝えた。武漢市在住の40代の女性観光客で、1週間前から道内を観光していたらしい。北海道に来る前は東京のホテルに宿泊しており、その時からマスクを着用していたので周囲への感染の可能性は低いということだったが、本当のところはわからない。新型のウイルスがどのようなものかは、はっきりとわかっていないのだ。用心するに越したことはないので、ホテルのフロントでマスクを1枚購入した。
 
 翌朝、新千歳空港に行くと、中国人らしき人が少なくないのに気がついた。北海道は中国人にとって人気の観光地なので当然なのだが、そればかりではないことに思い至った。(しゅん)(せつ)だ。
 そうだった。今は中国の正月休み中だった。どおりで中国人らしい人を多く見かけるはずだ。しかし、ということは武漢からも大勢の人がやってきている可能性が高いことになる。なんといっても人口が1,000万人の大都市なのだ。経済が発展している武漢からの観光客がいないわけがない。
 そう考えると、じっとしてはいられなくなった。ドラッグストアでマスクを1枚買って、今着けているマスクの上に重ねた。念には念を入れた方がいいという心の声が聞こえたからだ。

 しかし、機内で咳をする人もくしゃみをする人もいなかったせいか、羽田に到着した時にはコロナのコの字も頭に残っていなかった。 そんなことよりも、心地良い報告を早く聞きたかった。電話やメールで毎日報告は受けていたが、社員の口から直接聞きたかったのだ。空港内で早めの昼食を済ませて急いで会社に戻った。

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