『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
1年後、男は昨年と同じホテルで行われたテレビ局主催の広告賞授賞式に参加していた。まったく同じ日だった。そして、大賞は予想通り大手電機メーカーだった。
社長のスピーチは去年とほとんど同じだった。出来レース。広告の内容ではなく、出稿量で大賞が決まっているのは明らかだった。少なくとも男にはそう思えた。
懇親会が始まった。乾杯の挨拶が始まると、すぐに料理ブースに並んだ。今日は寿司とローストビーフと伊勢海老を食べなければやっていられない。出来レースに1時間も付き合ったのだから、そのくらいは当然だ。
でも、赤ワインは取らなかった。スーパーで500円くらいで売っているようなものを有難くいただくわけにはいかない。ウイスキーの水割りで喉を潤して、料理をがっついた。
食べ終わったらもう用はないので、さっさと懇親会場を抜け出した。すると、昨年と同様にチャイナドレスのホステスが紙袋を渡してきた。受け取って中を覗くと、昨年より小さな包みだった。でも、それでほっとした。3年連続シュークリーナーセットではたまらない。
1階でエスカレーターを降りて、急ぎ足で出口へ向かうと、大好きなメロディが聞こえてきた。『YOUR SONG』。ハッとして立ち止まると、カフェラウンジが、そして、ピアニストの後姿が見えた。
その瞬間、1年前のシーンが蘇った。あの時のピアニストに違いないと思った。同じような花柄のワンピースで、同じように花が萎れていた。
次の曲が始まった。『GEORGIA ON MY MIND』。1年前とまったく同じように甘く切ないピアノの音が胸に迫ってきた。
でも、演奏が終わっても客席からはなんの反応もなかった。男はその状況を受け入れることができなかった。彼女の後姿に向かって大きな音を立てて拍手を送った。
すると、驚いたように長い髪が揺れ、ぎこちない動きで振り向いた彼女の目は大きく見開いていた。男が親指を立てて笑みを贈ると、はにかむような笑みが返ってきた。そして声を出さずに「ありがとうございます」と口を動かして、ピアノに向き直り、すぐに次の曲を弾き始めた。ビージーズの『愛はきらめきの中に』だった。哀しそうな後姿は消え、軽快なリズムに乗ってメロディが踊った。ピアニストの後姿は喜びに変わっていた。
良かった……、
男は安堵して、静かにその場を離れた。そして、ホテルの出口を抜けて、早足に駅へと向かった。
5分後に駅前の交差点に辿り着いた。信号が変わろうとしていたので急いで渡ろうとしたが、何故か足が止まった。「しかし」という声が体の内から聞こえたからだ。するとピアニストの後姿が浮かんできたが、その姿は哀しいものに変わっていた。曲を弾き終わって後ろを振り返っても拍手する人がいないからだろう。彼女は溜息をついているに違いない。そう思うと、切なくなった。目の前の信号が緑に変わっても、足は動かなかった。
大勢の人が渡る姿をただボーっと見つめてると、どこからかメロディが流れてきたような気がした。物哀しい曲だった。『HOW CAN YOU MEND A BROKEN HEART』。『傷心の日々』という邦題を思い出すと、更に切なくなった。