『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 女にも18歳の頃があった。
 信じられない悲劇が襲ってきた18歳の頃があった。
 人生が一変し、奈落の底に落とされた18歳の頃が……、

        *

 18歳になって間もなくの頃、父親が亡くなった。それはあまりに突然のことで、受け入れることができなかった。人一倍健康に気を遣っていたし、食事に気をつけていたし、運動を日課にしていたし、どんなに夜遅く帰ってきても翌朝のジョギングは欠かさなかった。父が死ぬなんて信じられなかった。
 
 女が小さな頃は、シャツの袖をまくって、力こぶを作って自慢していたものだ。女はその力こぶに手をかけてぶら下がるのが好きだった。おっきくて頼もしい父が大好きだった。友達に自慢さえしていた。世界で一番の父親だと思っていた。
 しかし、その父は突然いなくなってしまった。お客さんのピアノを調律している時に急に倒れたのだという。急性心臓死。そんな病名は聞いたこともなかったが、心臓が突然止まってしまう病気だという。でも、健康診断でなんの異常もないと自慢していた父の心臓が急に止まってしまうなんて、どう考えてもあり得なかった。その日の朝も一緒にご飯を食べて送り出してくれたのだ。とても元気で冗談まで言っていたのだ。

        *

 父は調律の仕事をしていた。ピアノの調律師。だから、小さな頃からピアノのある生活が当たり前だったし、ピアノを弾き始めるのは息をするのと同じように自然なことだった。だから、将来ピアニストになりたいと言った時、父は諸手を挙げて賛成してくれた。自らの夢を重ねるように。
 
 若い頃ピアニストとして演奏活動をしていた父は、それだけでは生計を立てることができず、ピアノの個人レッスンで生活費を補っていた。当時は1時間で1万円というのが相場だったので、複数の生徒に教えなければならなかった。
 その中の一人が母親だった。まだ学生だった母が卒業するのを待って結婚したのだが、結婚する前の2年間、ある技術を学ぶために専門学校の夜間部に通った。調律の技術を学ぶ学校だった。在校中にピアノ調律技能士3級という国家資格を取得した父は、結婚を機にピアニストを辞めて、調律事務所に就職した。その収入は高いとは言えなかったが、1級の資格を取得するために5年間の実務経験を積み重ねた。それは、将来独立するための布石だった。
 
 その後、晴れて1級の資格を取得すると、予定通り独立して個人事業主となった。嬉しいことに、独立した時、多くの客が父についてきてくれた。それに応えるために父は身を粉にして働いた。女が生まれると更に拍車がかかった。母も近所の子供にピアノを教えて生活を支えた。

 目が回るほど忙しくしていた両親だったが、子供との時間を大切にすることを忘れることはなかった。その中でも特に楽しみにしていたのは父のピアノ演奏で、夕食後や休日には必ずと言っていいほどピアノを弾いて聞かせてくれた。それも、様々なジャンルの様々な曲を聞かせてくれた。クラシックの時もあったし、ジャズの時もあった。ボサノヴァやポップスの時もあったし、ビートルズやローリング・ストーンズの曲をカッコよく弾いてくれたこともあった。魔術師のように鍵盤の上を踊る父の指を見ながら、いつか自分も父のようにピアノを弾きたいと思ったものだ。だから、一生懸命練習した。父と母の教えを受けながら一生懸命練習した。そして、いつしか音大の受験を考えるようになった。授業料は半端なく高いが、奨学金制度を活用すれば公立の音大なら可能だということがわかったので、両親に相談した上で受験を決めた。

 しかし、突然、父がこの世を去ってしまった。半端ない喪失感に加えて、すべての将来設計が音を立てて崩れていった。

 冷たくなった父の顔に手を伸ばした。生きている感触は何も感じられなかった。本当に死んでしまったのだ。現実に直面した女は絶望に襲われた。そして、心は散り散りに乱れ、その場にいられなくなった。気がつくと、外に飛び出していた。
 
 曇り空の中を当てもなく歩いた。景色が何も目に入らない中、どこまでも歩いた。

 何かの前触れのように、生暖かい風が頬を撫でた。と思ったら、急に空が暗くなり、突然バケツをひっくり返したような雨が降ってきた。慌てて近くのコンビニに駆け込むほどの雨だった。これ以上は強く降れないというほどの猛烈な雨だった。

 雨宿りをしながら、雨の中に父の姿を探した。しかし、その姿を見つけることはできなかった。

 何故勝手に一人で行ってしまったの? 

 呼びかけても、雨は何も答えてくれなかった。お父さん、と呟いたら、瞳の中にも雨が降り出した。視界からすべてのものが消えた。
 
 気がつくと、辺りは明るくなっていた。雲間から陽が射していた。女はコンビニから出て、当てもなく歩きだした。すると、何かが見えた。それはキラキラと光っていた。空に何色もの光が橋を造っていた。それを見ていると、あのメロディが聞こえてきた。父が大好きだったあのメロディ。酔っぱらうと、父がいつも弾き語りをしていたあのメロディ。

『WHAT A WONDERFUL WORLD』

 父の歌う声がはっきりと聞こえた。その瞬間、女の瞳の中の雨が止んだ。すると、父と約束したことが口をついて出てきた。

 ピアニストになる! 
 どんなことをしてでもピアニストになる! 

 声に反応するように七色の虹が輝きを増して大きくなり、その上で音符が踊り始めたように見えた。
 
 それを追っていると、また父の歌う声が聞こえた。暖かく包み込むような声だった。そして、背中を押すような声だった。

 大丈夫だよ、君の人生は幸せに満ちているよ、心配しなくて大丈夫だよ。

 そうね、お父さんが見守ってくれているから大丈夫よね。

 父の歌声に自分の歌声を重ねた。

 What a wonderful world。

 雨上がりの道を父とデュエットしながらいつまでも歩き続けた。

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