『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
女
ベーカリーでのアルバイトとホテルでのピアノ演奏、女は変わらない日々を過ごしていた。
テレビでは新型コロナウイルスのニュースが盛んに報道されていたが、それを自分と関係付けて見ることはなかった。大変なことが起き始めているんだな~、と思うくらいだった。それより、若い女性が遭遇した災難に目を奪われた。駅近くの住宅街の市道で斜面の土砂が崩れ落ち、歩道を歩いていた18歳の女子高生が亡くなったのだ。
午前8時ごろ突然崩れて、通学中だった彼女に68トンもの土砂がのしかかったらしい。瞬間のことだったとはいえ、どんなに痛かったか、想像するだけでも怖くなる。それに、どれほど無念だったか。
高校3年生といえば大学受験の最中だったかもしれないし、就職が決まって社会人になるための準備をしていたのかもしれない。どちらにしても、将来に向けて胸を膨らませていたに違いない。彼女の未来は大きく開かれていたのだ。しかし、一瞬の土砂崩れがすべてを奪ってしまった。彼女の時間は止まったまま動かないのだ。
それは、家族も同じだった。18年間大事に育てた可愛い娘が突然この世から姿を消したのだ。ほんの少し前に「行ってきます」と元気に家を飛び出していった娘が突然帰らぬ人になってしまうなんて、誰が想像できるだろうか。
現場で救助に当たった救急隊員が血だらけの鞄を持って立ち尽くしていたという。その鞄を受け取った両親の絶望はいかばかりだったろうか。太陽は永遠に閉ざされ、闇がいつまでも続いていくのだろう。辛いことは時間が解決してくれるというが、時間が解決できないものもある。血を分けた子供の突然の死を受け入れられるわけがない。
どうして?
何故?
なんであの子が?
どうして土砂崩れが?
なんであの子に?
答えのない疑問がグルグル回り続けるだけなのだ。
夜になったら彼女が帰ってくる気がするに違いない。でも、「ただいま」という声を聞くことはできない。「お帰り」と迎えてあげることもできない。そんなやり取りはもうできないのだ。明日になっても、明後日になっても、1年経っても、10年経っても、両親が生きている間にあの子の声を聞くことはもう二度とないのだ。
誕生日を祝うこともできない。毎年ケーキを用意するかもしれないが、蝋燭の数は18本で止まったままなのだ。もう二度とあの子に誕生日プレゼントを渡すことはできない。
女は顔も名前も知らない18歳の女子高校生に思いを寄せた。尊い命に思いを寄せた。かけがえのない命に思いを寄せた。そして、遺族の哀傷に思いを寄せた。