『後姿のピアニスト』 ~辛くて、切なくて、 でも、明日への希望に満ちていた~ 【新編集版】
 ベッドに横になったのは覚えているが、すぐに寝入ってしまったらしい。目が覚めた時には部屋の中は暗くなっていた。信じられないが、4時間も眠っていたようだ。それでも体は重かったし、首里城の痛ましい残像が消えたわけではなかったが、これ以上寝ることをお腹が許さなかった。ホテルを出て、沖縄料理専門店へ向かった。 
 食べるものは決まっていた。黒毛豚の中でも希少な100パーセント純血統種『金武(きん)アグー』だ。これだけはなんとしても食べなければならない。

 店に入って、テーブルに腰を下ろす間もなく告げると、「ご用意できます」と笑顔が返ってきた。その途端、霧が晴れるように気持ちが切り替わった。すぐにカメラを用意して、今か今かと待ちわびた。
 
 ビールを飲んで待っていると、しゃぶしゃぶと地野菜が運ばれてきた。ところが、そこには通常目にするポン酢はなく、胡麻、塩、味噌の三種の薬味で食べ比べるようになっていた。

 これは面白い、

 しゃぶしゃぶの新しい食べ方に期待して食べ始めると、余りの美味しさと見た目の美しさに箸が進んだ。目の前の食材はあっという間に無くなってしまった。最後にシークヮーサーのパウダーをかけたシャーベットで口直しして、大大大満足で店を出た。

        *

 部屋に戻ってシャワーを浴びると、ビールが飲みたくなった。しかし、冷蔵庫は空っぽだったので、自販機で買うために服を着て靴を履いた。そして、チェーンを外してドアを開けようとした時、何かに呼び止められたような気がした。
 そうだった。空港の売店で買ったものを忘れていた。泡盛(あわもり)の古酒(クース)。早速、製氷機から氷を取ってきて、ガラスコップに注いだ。 
 キレのある味わいが喉に沁みた。その上、室温を高めに設定しているのでオンザロックがたまらない。テレビから聞こえる沖縄民謡が心地良く、二度三度とお代わりが進んだ。クースと沖縄民謡は最高のマリアージュだと思った。

 沖縄民謡の番組が終わってコマーシャルの時間になったので、それを利用してトイレへ行った。
 戻ってくると、ニュース番組に変わっていた。アナウンサーの声が深刻そうだった。気持ちの良い酔いが一気に醒めた。 
 ダイヤモンドプリンセス号のニュースだった。感染者数は増え続けていた。あの時の嫌な予感は当たってしまったようだ。背筋を気持ち悪い寒さが襲った。

        *
 
 8日に見たニュースにも驚いた。中国で一人の医師が死亡したニュースだった。武漢の眼科医だった。彼は昨年12月にSARSに似た7人の症例に気づき、SNSで同僚の医師に発信した。大流行が起きている可能性が高いということと、感染を防ぐために防護服を着なければいけないということを。しかし、その情報を目にした警察は彼の情報は虚偽だと決めつけ、このような違法行為を続ければ裁かれることになると脅した。
 
 間違っていたのは警察の方だった。彼の情報は虚偽ではなかった。真実だった。医療現場で起きている明白な真実だった。もし彼の告発を真剣に受け止めていればと思うと、残念でならなかった。
 それに、彼は34歳だった。前途は開けていた。その上、奥さんは二人目の子供を身籠っていた。妊娠5か月だった。あと5か月ほどで可愛い我が子を抱けるはずだった。新たな家族を迎えての幸せな家庭生活が始まるはずだった。だが、その夢はもろくも崩れ去ってしまった。幸せの絶頂から不幸のどん底に落とされたのだ。しかも、それだけでは終わらなかった。妻や子にも会えず、親族にも会えず、孤独な最期を迎えさせられたのだ。

 なんと言うことだろう……、

 男は彼の無念を思った。


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