君が嘘に消えてしまう前に

「――私のことも呼び捨てでいいよ」


自分だけが気まずく思っているのがなんだか悔しくて、気づいたらそう言ってしまっていた。
瀬川は一瞬虚を突かれたような顔をして、それから「そう」、とあっさり呟いた。


「改めてこれからよろしく、菜乃花」


ためらうことなく呼ばれた名前に、思わず振り返る。

自分の耳を疑った。


てっきり自分も名字で呼ばれるものだと思っていたのに。


まさか、名前で呼ばれるなんて。

この一年間極力人と関わらないようにしてきた私には、あまりに急なことだった。

振り返って瀬川を凝視したまま固まる私と、不思議そうに瞬きをする瀬川。
本人はあっけらかんとしているから、これが通常運転なのかもしれない。...にしても、距離の詰め方が急すぎる気がするけれど。


「ごめん、つい。」


わたしが固まった原因に思い至ったらしい瀬川は、悪びれる風もなくそう言った。

その一連の流れが彼の素なのか、それとも優等生まがいの演技なのか。
判断することを放棄した私は「別にいいけど」とつぶやいてピアノに向き直った。

少し早くなる鼓動をピアノの音でかき消すように、練習を始めた。

その日から、私は彼のことを瀬川と呼ぶようになったのだ。
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