君が嘘に消えてしまう前に
そんな過去を回想しつつ、私は今日も練習のために音楽室に向かう。
いつもと同じ音楽室。だけど、一人じゃない練習に慣れてしまったからか少し物寂しい感じがする。

そんな気持ちを紛らわすように、鍵盤に手をかけ瀬川が来るのを練習しながら待つ。
ちらちらと無意識のうちに時計を何度も確認するけど、一向に時計の針は進まない。

ひとりでやる練習って、こんなに時間がたつの遅かったっけ、なんて考えて。
仕方がないからまた伴奏を奏で始める。

それからしばらくして、がららっと音がして音楽室の扉が開いた。

「悪い、待たせた」

「...お疲れ」


短く言葉を交わし、瀬川が机の上にカバンを置く。
その声は若干覇気がない気がしたけれど、本人が態度に出そうとしていないからあえて口には出さなかった。


「最初から合わせるのでいいか?」

「うん。ありがと」

瀬川の腕が滑らかな動きで初めの四拍を刻む。そのゆったりとした指揮に合わせて鍵盤に指を滑らせる。

瀬川の指揮はちゃんとこっちに合わせようとしてくれるものだから、去年よりもずっと弾きやすい。

それに、ほとんど何も言わなくても瀬川は私がどんな風に弾きたいか、どこを盛り上げたいかをわかってくれた。

それはたぶん、小学生の時になんとなくでピアノを習っていたくらいじゃ意見が合わないような箇所で。

クレッシェンドのような音楽記号やアレグロとか、ポコ・ア・ポコみたいな速さを表すものの意味を正確に把握しているのもそうだけれど、小学生の間に辞めたにしては、瀬川はピアノや音楽に詳しかった。



まあ、この前の練習で「しばらくピアノやってない割に詳しいよね」とポロっとこぼしたときに若干表情が曇ったから、それ以降は突っ込まないようにしているのだけれど。



そんなことを頭の片隅で考えながら練習して、一度ピアノを弾くのを中断して休憩しているときだった。



「菜乃花はさ、俺になりたいと思う?」



何気ない感じで投げかけられたその問いに、動きを止めて瀬川の顔をじっと見る。

その目はどことなく力なくて、いつもの鋭さとまっすぐさは鳴りを潜めている。


何で急にこんなことを聞くんだろう。もしかして、さっきの疲れたような覇気のない声が関係してるんだろうか。


瀬川に、なりたいか。
ちょっと考えて、なりたいわけじゃないなと結論を出した。

文武両道で、整った容姿で、人当たりがいい態度をとれて。そういうのは、もちろん羨ましいし憧れるんだけど。
ずっと笑顔で理想の優等生でいるのは大変そうだとも思う。

それに、私は私が好きじゃないけど。それでもそう簡単に今までの私の積み重ねを消すとなると躊躇があった。


「…どうだろう。確かに私は私じゃない誰かになりたいって思ってるけど、簡単にだれかになりたい、とも言えないかな。
一見羨ましく思える人でも…他人からは見えない部分って絶対あると思うから」


頭の中にあることを一つ一つ整理して言葉に出していく。

そうすることで自分での自分の考えていることが明確になっていく気がする。

確かに私は、わたしじゃない誰かに成り代わりたい。
ずっとそう思ってたし、今もその気持ちは変わらない。

私の家族とは違う家族にあこがれてる。

性格だってもっと明るくて卑屈じゃなきゃいいなって思うし、勉強だってもっと要領よく出来たらって何度も思った。
もっと話し上手だったら、皆みたいにみたいにうまく笑えたら、挙げればきりがない。

でも、もし望む誰かに成り代われるよって言われても、きっと私は迷う。

それは、今までの自分をなかったことにすることだから。

それに、もしも、なんてないのだから。
自分の人生からは逃げられないんだから、誰かに押し付けることなんてできないんだから考えたってしょうがない。


私が他人に成り代わりたいと思わない理由は、自分の人生への執着というよりは、そんなありえない夢物語に対する諦めのほうがたぶん大きい。


「急にそんなこと聞いてどうしたの?」

「...いや、ただ、なんとなく」

なんとなく普段の瀬川らしくない質問だな、と思って安易に問いかけたことを後悔した。
歯切れ悪く返事をぼかすあたり、突っ込まれたくないことだったようなのに。


「変なこと聞いてごめん、...練習再開するか」


そんな私の感情が顔に出ていたのか、瀬川は雰囲気を変えるようにそう言って伸びをした。
さっきまでの覇気のなさを隠すように短く息を吐いて、立ち上がる。


あ...また、気を遣わせた。

そのことを申し訳なく思いながら、私は小さく「うん」とつぶやいた。

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