ショパンの指先
「飲んできたの?」

 洵は億劫そうに顔を上げ、私の顔を見ると、だらしなく笑った。

「店のウィスキー飲んでやった」
「まさか優馬に内緒で?」
「金は置いてきた」
「そういう問題じゃないでしょう!」

 洵は私の言葉なんか聞いていないようで「水、水」と繰り返した。仕方なくコップに水を汲んで洵に渡すと、洵は水を喉仏に垂らしながら一気飲みした。

「どうしたの? 練習があるからいつもは絶対飲まないのに」

 座った瞳で私を睨みつけるように見据え、ぐいとコップを押し付けるように返された。そして洵は何も言わずにふらふらと立ち上がり、ネクタイを乱暴に緩めて、壁に手をつきながら廊下を歩き、リビングに入っていった。

 洵はそのままピアノの椅子に座り、鍵盤蓋を開けた。

「そんな状態で練習なんか無理よ」

 洵は私の言葉を無視して、鍵盤に指を乗せる。洵は『葬送行進曲』を弾いた。陰鬱で重苦しい序奏の部分のみを切り取って繰り返し弾く。闇夜の墓碑の下から亡骸がゾンビのように這い出てきて追いかけられるような、恐ろしい気分にさせられる。

「洵、その曲やめて」

 洵はまたもや私の言葉を全く無視して、鍵盤に顔がつきそうなくらい猫背になりながら、何かにとりつかれたかのように『葬送行進曲』を弾く。私はその様子を、ただ茫然と立ち尽くしながら見ていることしかできなかった。

 洵は最近『葬送行進曲』を好んでよく弾く。洵の今の心境に合っているのか、突然思い出したかのように『葬送行進曲』の一番暗い部分だけを狂人のように激しく弾いたり、ゆっくりと物思いに浸るように弾いたりする。
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