ショパンの指先
「ねえ洵、今日はもう休みましょう」

 私は洵の肩を優しく抱いて語りかけた。洵は一音一音噛みしめるように、ゆっくりと指を動かす。聴いている私まで気が滅入りそうだった。

「ねえ洵、エオリアンハープを弾いて。明るくて軽やかな曲」

 すると洵は『葬送行進曲』を弾くのを止め、『エオリアンハープ』を弾き出した。指が軽快に動き、部屋の空気を一変させる。

 私は洵を後ろから抱きしめ、大きな背中に耳を押し付けて、洵の演奏する『エオリアンハープ』を聴いていた。二人だけの世界。とても安心する。洵がいれば、他には何もいらない。

 幸せな気分に浸っていたのに、洵は珍しくミスタッチをして、そのことに洵自身が酷く驚いた様子で演奏がピタリと止んだ。私は不穏な空気を感じて慌てて洵を励ました。

「酔っているからよ。そんな状態でミスなく弾ける方がおかしいわ」

 洵はしばらく何も言わずにピアノを見つめ続けた。そして突然、バーンっと音を立てて鍵盤を叩いた。私は驚いて、抱きしめていた手を思わず解いた。

 洵は鍵盤に怒りを込めるように、10本指で何度も鍵盤を叩く。まるで雷が落ちているような音だ。あまりの煩さに私は耳を塞いだ。

「やめて洵! ピアノが壊れるわ!」

 洵は狂ったように鍵盤を叩き続けた。洵が洵ではない人のように見えた。繊細な心が悲鳴を上げている。

「大丈夫よ、大丈夫」

 私は再び洵を後ろから抱きしめて、子供をあやすように優しく語りかけた。

「洵はとても素晴らしいピアニストだわ。あなたは最高の演奏をする。だから大丈夫、安心して」

 洵は鍵盤を叩くのを止めて、項垂れた。身体が震えていたので、泣いているのかと思って顔を覗き込むと、青ざめながら唇を噛みしめていた。
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