ショパンの指先
私はよろめきながら立ち上がって、スピーカーの電源を入れた。震える手でオーディオにCDを入れ、曲を流した。

スピーカーの横に煙草の箱があったので、一本吸う。深呼吸するように、煙に肺に流し込む。

分かっていた。私が逃げられる場所はどこにもない。これが私の選んだ道だ。

スピーカーからはショパンの英雄ポロネーズが流れてきた。父が好きだった曲だ。

いや、父が好きだったと思われる曲だ。本当にこの曲が好きだったかは分からない。

街中でピアノを演奏している人を見て母が「この曲、お父さんが好きだった曲よ」と言った。それが英雄ポロネーズだった。

母は父のことをあまり喋りたがらなかった。父は私が生まれてすぐに病死したと聞かされていた。写真すら見たこともなく、あまり話したがらないのは、母がまだ父の死を乗り越えていないからだと思い、幼いながらに遠慮していた。

だから、母が何となしに呟いた父の思い出を私は後生大事に覚えていた。それを聞いてからというもの、私は何度も英雄ポロネーズを聴いた。英雄ポロネーズに見たこともない父の面影を投影させて、男らしくて堂々とした素敵な人なのだろうと想像を膨らませた。

父は学校の音楽の先生だったということは聞いていたので、きっとクラシックが好きなのだろうと思った。そして中でも英雄ポロネーズを作曲したショパンが一番のお気に入りだったのだろうと勝手に推察して楽しんでいた。

そして私は片っ端からクラシックを聴き始めた。クラシック音楽を聴いていれば、なんとなく父に近付けるような気がしていた。隣で私を見守りながら、一緒に音楽を聴いてくれているような気さえした。

現実から目を逸らし、顔も知らない父を心の支えとしていたのかもしれない。なにしろ母は、娘の私から見ても、どうしようもない尻軽女だったからだ。

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