音のない世界に生きる私が、あやかしの妻になりました

「だめ……だめ、です…っ」

 泣き出しそうな桜を、黒稜は優しく抱きしめる。

『桜、頼む」

 黒稜の優しい穏やかな声が桜の耳に届いて来る。
 実際は耳に届いているのか、頭に言葉が響いてくるのかは分からない。
 しかしその声は温かく、桜を愛する気持ちが伝わってくる。

『これは、御影家が生み出してしまった呪いだ。現当主である私には、その呪いをどうにかする責任がある。こと大事な妻を苦しみから救えると言うのなら、私のあやかしの血など、いくらでも捧げよう』

 桜は首を横に振り続ける。
 もう一度黒稜を説得しようと顔を上げたとき、地面がほのかに光り出す。
 桜ははっとして自分たちの立つ足場を見下ろす。
 そこにはすでに何らかの術式が施されており、所々に札が置かれていた。
 黒稜は桜がここへ来る前にすでに解術式を準備しており、必要なものはあとあやかしの、黒稜の血だけであった。

「黒稜様……っ!」

 黒稜はあやかし化した自身の鋭い爪で、左腕の手首の辺りをすっと切り裂いた。
 するとおびただしい量の血が腕からぼたぼたと零れ落ち、足元の術式へと広がっていく。

「黒稜様…っ!!」

 顔を歪めた黒稜は、片膝をつくと、術式に向かって何かを呟く。
 桜の足元の術式はますます強い光を帯び、桜を包み込んでいく。

「黒稜様っ、やめて、…やめてくださいっ……」
(このままじゃ、黒稜様が死んでしまう…っ)

 このまま続ければ、いくらあやかしの力が強くなっている黒稜であろうとも、生死に関わることになるだろう。
 黒稜を止めようとする桜に、しかし黒稜は強く言い放った。

『桜、私はお前を救いたい。お前が笑って過ごせる世界を作りたいのだ』
「そんなの……」

(そんなものはもう、叶っているのです。黒稜様、貴方さえいれば…!)

 桜は力強く祈る。

(どうか、どうか、黒稜様を苦しませないで)

 黒稜は散々苦しい想いをしてきたはずだ。
 それなのに桜のことに関してまで責を負う必要などないのだ。

(黒稜様…!黒稜様…!)

 術式が力を帯びるにつれ、桜の握った手からも温かな光が溢れ出す。
 キーンと何か甲高い音のようなものが聴こえ、酷い頭痛に襲われる。

(頭が割れるように痛い…、この痛み…いつかも…)

 そうして二つの光が混ざり合い、桜はそのまま意識を失った。


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