氷と花
 ──「来なさい」

 そう言って曲げた肘をさし出すと、マージュは戸惑いながらもゆっくりとネイサンの腕を取った。フレドリックの結婚式だった。マージュは清楚でおとなしい鳶とび色のドレスを着て、緩やかに結い上げられた髪からは、いくつかの細い後れ毛が耳の横に垂れていた。

 ネイサンが申し込んだ結婚を、彼女は受け入れてくれていた。少なくとも、手紙上では。

 しかし彼女の心はまだフレドリックの元にあるのは明らかだった……。
 ネイサンを恐れるように、震える瞳。まるで運命に抵抗しようとしているような、ぎこちない歩調。マージュの拒否を全身に感じて、素直に彼女に優しくすることはできなかった。

 ふたりきりで乗った馬車は沈黙ばかりが続いた。

 ──ウィングレーンのウェンストン・ホールに着いてからのマージュは、あらためて惚れ直してしまうほどの潔さだった。

 普通の女性なら、泣き言を言ったり、身近にいるネイサンに八つ当たりしたりして当然だったのに、彼女にそういった俗っぽさはいっさいなかった。
 悲しみをひた隠し、怯えながらも笑顔で周囲を輝かせ、次第にネイサンに素顔を見せてくれるようになった。

 ネイサンも、ゆっくりとではあるが、氷のように冷え切っていた心を溶かしていった。


 マージュとのことを思い出すと、ネイサンは頭のいかれた獣のように咆哮を上げながら扉を突き破ってしまいたい衝動に駆られた。
 もしかしたらマージュがフレドリックと生きる道を選んでしまうのではないかと思うと、いても立ってもいられなくなった。

 心を閉ざしていたネイサンに、一生懸命話しかけようとしてくれていたマージュ。

 毎朝書斎の長椅子に座り、静かに書類を整理していたマージュの凜とした横顔。
 暗闇で味わった寝間着ごしの甘い乳房……。

 たった半月だけの間に、マージュはネイサンの肌の中にまで入ってくることに成功していた。時々、血潮の中にさえ彼女を感じる。今さら彼女を失うのは、ネイサンにとって全身の血を絞り取られるのに等しい苦痛だった。

 マージュを抱いてしまったことに、ネイサンは一抹の安心と、多くの後悔を抱えはじめていた。

 もっとも神聖な場所に証を刻まれたことで、マージュはもうネイサン以外と生きていく道はないと心を決めてくれるかもしれない。無理やりの望まない結婚に彼女を留めるのは良心が痛んだが……それでも、マージュへの想いの前には、ネイサンの良心など(ちり)ほどの重みも持たなかった。

 たとえ力づくでも、マージュが欲しかった。

 それでも。
 もし、マージュがフレドリックの謝罪を受け入れ、フレドリックとともに生きることを選んだら?

 マージュは生涯、他の男性──よりによって夫の兄──に純潔を捧げてしまったという十字架を背負って生きていかなくてはならなくなる。
 どれだけ反省していても、フレドリックはあの性格だ。またいつか魔が差して他の女に手を出すこともあるだろう。
 その時に、マージュはなにも反論できなくなる。フレドリックには『妻だって他の男と寝たことがある』という免罪符が与えられたのだから。

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