氷と花
 一度結婚してしまえば、妻は法的に夫のものになる。
 いくら兄とはいえ、ネイサンにできることは悲しいほど限られてくる。
 しかし……。
 それでも、もしマージュがフレドリックを選び、その未来を受け入れるのなら、ネイサンはそれを尊重しなければならない。

 マージュが欲しい。
 マージュが欲しい。

 そう魂が叫んでいた。しかしネイサンが欲しいのは、幸せなマージュだった。いつも笑っている彼女。明るく朗らかに生きる彼女。
 涙に濡れた彼女ではない。
 ネイサンは窓の外に浮かぶ灰色によどんだ空をじっと見つめ、書斎の入り口に背を向けたまま、マージュが答えを出すのを静かに待ち続けていた。

 カチリ、と真鍮の取っ手が鳴り、書斎の扉が開いたのを感じたのはその時だった。

「兄さん……待たせたね……」
 フレドリックのかすれた声がする。すぐにふたり分の足音が書斎に入ってくるのが聞こえたが、ネイサンは彼らに背を向けたまま動かなかった。
 動けなかった。

 ふたりは将来を決めたのだ……。『ふたり』は! そこにネイサンは入っていない、この疎外感。
 不安。
 悔しさ。
 怒り。
 ネイサンはただ腑抜けのように窓の前に突っ立って、彼らの決定をありがたく拝聴しなければならない。

 彼らの顔を見ることはできなかった。特に、マージュの顔を見たら自分がなにをしてしまうか、まったく予想がつかなかった。
 そしてなによりも、彼らに自分の顔を見られたくなかった。
 だからネイサンはふたりに背を向けたまま、振り返らなかった。

「こちらを向いてください、ネイサン」

 こんな時でなければ、聞き惚れてしまうほど優しいマージュの声が後ろからした。もしかしたら、彼女は微笑んでいるのだろうか? だとしたらなぜ?

 ──決まっている。この愚か者めが。失ったと思っていた長年の婚約者が帰ってきて、変わらぬ愛を告白され、彼女は有頂天でわたしを捨てようとしているんだ。

 目尻が針を刺されたように痛んだ。しかし、ここで涙を流すわけにはいかなかった。


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