早河シリーズ第一幕【影法師】
 この家に本来居るはずの正宗の妻と、娘のなぎさの姿が見えない。

『妻はなぎさと病院に行っています』
『なぎさちゃんと? どこか体の具合でも……』

正宗はかぶりを振り、大きな溜息をついて背中をソファーに沈めた。

『なぎさが妊娠していたんだよ。秋彦の葬儀が一段落して、すぐに妊娠がわかってね。今日が堕胎手術の日なんだ』

 早河の脳裏に、先日めまいを起こして倒れかかったなぎさの姿がよぎる。まだ十日前の出来事だ。
もしやあれは夏バテではなく、妊娠の影響によるものだったのかもしれない。

『相手は既婚だったようで……。社会人も半人前のあの子が不倫した男との子供を抱えて生きていけるほど、世間は甘くない。堕胎が人の命を奪う行為であったとしても、私達にはこうするしかなかったんです。私にとっても初孫だった。悔しくて堪らないよ』

 正宗は、年代物のシガレットケースから煙草を取り出してくわえた。娘が妻のある男の子供を身籠り、堕胎手術を受けている。
正宗の心境が如何なるものか、察することしかできない。

『早河さん。その様子だと、あなたはなぎさの相手を知っていたんですか?』
『いえ、僕も相手の男を一度見かけただけなんです。なぎさちゃんからは、その人とは別れたと聞きました。香道さんにも別れたことを話すつもりだと言っていたのに……』

その機会を奪ってしまったのは、他ならぬ自分だ。どれだけ己を責めても足りない。
息子を亡くした悲しみに浸る暇もなく、次は娘の妊娠と堕胎。正宗は傍目にもわかるほど疲れきっていた。

 香道家を辞去した早河を迎えるのは、蒸し暑い曇天の空。貴嶋が香道を殺したあの日から一日だって心の天気は晴れやしない。

いつも、いつも、涙の大雨だった。
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