早河シリーズ第一幕【影法師】
 彼女の学歴に文句はない。高校は名門私立女子校、大学も名のある東京の四大私立大学の文学部。
なぎさは英語が堪能で大学時代に海外のホームステイ経験があると生前の香道秋彦に聞いていた。

 職歴は大手出版社の一社のみ。このままここで働いていれば将来安泰だろうにと、彼はどうしてもそう考えてしまう。
自分だって公務員の職を捨てた身だ。仕事を辞めたなぎさに偉そうなことは言えない。

『出版社を辞めて俺の所で働く気でいたの?』
「早河さんの所で雇ってもらおうとは……半分は思っていました。仕事辞めようと思ったのも、早河さんが探偵になると聞いたからです。でも図々しいにもほどがあるので、タダ働きの覚悟です。出版社を辞めてフリーでも仕事はできます。バイト時代の人脈があるから少しは物書きの仕事もあるんですよ」

 そういえば彼女の兄の香道秋彦もたまに思い立ったが吉日とばかりに考えなしに動く癖があった。よく似ている兄と妹だ。

『実家に戻る気は?』
「ありません。父とは絶縁状態と言うか。あそこまで怒らせてしまった以上は私も職を決めて落ち着くまでは帰らないつもりです。独り暮らしになるからライターの仕事だけじゃ厳しいし、どこかでバイトでもしようかと」
『それで俺の仕事はタダ働きでもいいから手伝いたいってことね。無茶苦茶だな』

 早河は立ち上がってミル式全自動で作ったコーヒーを2つのカップに注いだ。なぎさにはミルクと砂糖をつけて彼女に渡す。

「無茶苦茶でも世間知らずとでも、何とでも言ってください。私はこうでもしないと前に進めないんです。ワガママだってこともわかっています。けど早河さん言ってくれたじゃないですか。お兄ちゃんの仇をとるのを見届けて欲しいって……。それなら私も一緒にやりたい。少しでも早河さんのお仕事の手伝いをして、早河さんが兄の仇をとるところを一番近くで見届けたいんです」

なぎさの話を早河は黙って聞いていた。彼は無表情にコーヒーを飲んで黙考する。

『……仕事内容は電話番と書類作りが主になる。ほとんどが雑用だけどタダ働きはさせない。そこまで多くは出せないが給料は払うよ。出版の仕事と合わせれば、独り暮らしができるくらいの稼ぎにはなるはずだ』
「……早河さん……?」
『ただし、事務所の仕事よりも出版の仕事を優先すること。もし仕事が重なれば遠慮なく出版の仕事を優先させていい。あと、一度家に帰ってご両親と今後の話をする。この条件が守れるなら君を俺の助手として雇う』

 なぎさは呆気にとられていた。早河の事務所で働くことは絶望的だと半ば諦めていたからこそ、今の状況が信じられない。

「いいんですか?」
『家に帰ってお父さんと話をする。家出中のなぎさちゃんがこの条件をクリアできるならね』

早河が意地悪く微笑んだ。なぎさはムッとして彼を睨む。

「早河さんって意外と意地悪ですね」
『意外とって言うならお互い様。俺もなぎさちゃんがここまで無茶苦茶やらかす子だとは思わなかったよ。どうする? 止めるなら今のうちだけど』
「もちろんやります。家に帰るのは……条件なら仕方ないです。父とも話します」
『わかった。家には俺も一緒に行く。上司としてご両親に仕事の説明をしないといけないからね』

 なぎさの履歴書を早河はデスクの引き出しにしまう。振り返ると、ソファーにいるなぎさは嬉々としてコーヒーを飲んでいた。

「そっかぁ……早河さん上司になるんですね。うわぁなんだか変な感じ!」

本当にこれでよかったのかはわからない。でもこれでいいのかもしれないと、なぎさの笑顔を見て彼は思った。
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