薄氷の城
第 1 話 姉と妹
大昔のある時代、天の国にイーリスと言う心が清らかで光り輝くような娘がいました。
全知全能の神は、この娘を心から愛しましたが、娘には神の愛が大きすぎたのです。
娘はある夜、神に黙って下界へ降りました。
∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵∴∵
フェルバーン家の広大な庭のカレンデュラが咲く一角でユリアーナが物語の冒頭を読んでいると、誰かの気配がした。彼女はヘーゼル色の瞳を上げた。
「コンスタンティン、来ていたの?」
気配の主はコンスタンティン・エイクマンだった。ユリアーナは彼の灰色がかった青色の瞳を見る度に、晴れた秋の空を思い出す。少し冷えているような、温かみのあるような不思議な色合いだった。
彼は、彼女と目が合った瞬間にその目を細め優しく笑った。
二人は同い年で、彼はユリアーナの妹アンナの許嫁。
アンナが八歳の時に許嫁となってから、月に数回アンナのご機嫌伺いに来ている彼は、この屋敷では既に家族のような扱いになっていた。
「来月のアンナの誕生日パーティーの件で。」
「お話しは終わったの?」
「ドレスの最終打ち合わせに時間が掛かっているみたいで。」
ユリアーナは、少しだけ微笑んで頷いた。
「それは、小さい時に読んでいた絵本じゃないの?」
「えぇ。小さい頃からこのお話しが好きだったの。良く分かったわね。」
「絵本の表紙が綺麗だと思ったことを覚えていたんだ。今も読んでいるんだね。どんな内容なの?そんなに面白い?」
ユリアーナはもう何度も繰り返し読んで痛んでしまった絵本を大切そうに撫でた。コンスタンティンは、その姿を微笑ましく見守る。
「女神のイーリスと元は唯の青年だった王様との物語よ。他の物語とは違って、女神が青年を見初めて求婚し、二人で幸せになるの。」
∴∵
ユリアーナの二歳下の妹アンナは、新しいドレスを纏って鏡を見ている。このドレスに合わせようと考えている宝飾品もテーブルいっぱいに広げている。
「イエットどう?この色、肌に合っているかしら?」
「いつもより落ち着いたお色ですが、お似合いでいらっしゃいます。」
アンナ専属のメイド、イエットは素直に褒めた。それを聞いて、アンナは顔をほころばせる。
母のゾフィーもそれを穏やかな顔で見守る。
「ユリアーナに見せに行く。」
イエットが止める間もなく、アンナは走り出してしまった。部屋に残されたゾフィーとイエットは、お互いの顔を見合わせ、困り顔でため息を吐いた。
アンナは屋敷を出て、真っ直ぐに走り続ける。この季節はカレンデュラの咲く場所がユリアーナの定位置だとアンナは知っている。
そこへ向って走っていると、ユリアーナの瞳を映したようなグリーンがかったブラウンのワンピースが目に入った。その前には、コンスタンティンが立っている。
「コンスタンティン、もう来ていたの?」
二人が声の方へ視線を向けると天真爛漫さを前面に出した笑顔のアンナが駆寄ってきた。
「衣装合わせは終わった?」
「えぇ。もう終わるわ。」
「ならば、僕は応接間で待たせてもらうよ。」
コンスタンティンは柔らかく笑うと、その場を去った。アンナはその後ろ姿を見送る。
アンナは ‘そうだ’ と言ってユリアーナの方へ向き直る。
「来月の誕生日パーティー用のドレス、どう?」
アンナは、ドレスの全体を見せるために、くるりと回って見せた。
「とても似合っているけれど、アンナには珍しい落ち着いた色合いね。だけれど、本当にとても似合ってる。素敵よ。」
「ありがとう。私のパーティーまでにまだ時間もあるのだし、ユリアーナも新しいドレス作ったら?コンスタンティンも偶には着飾るユリアーナを見たいと思っているはずよ。」
ユリアーナはアンナの方を見た。アンナは優しく笑う。
「私とコンスタンティンは何かを正式に約束したわけではないわ。許嫁だなんて親同士の口約束に過ぎないし、小さな頃に許嫁として交流していても成人してから正式に婚約に進むことがない場合もあるでしょう?エイクマン家だって、お父様やお母様だってユリアーナとコンスタンティンの結婚を認めてくれるわ。コンスタンティンにはこの後に許嫁の解消を申し出ようと思っているの。」
「どうして急に?」
「急じゃないのよ。二人が想い合っていることは前から気が付いていたの。」
ユリアーナの瞳は僅かに揺れる。
「だけれど、幼い私がいくらお父様やお母様にコンスタンティンとは結婚出来ない、したくないと言ったところで、いつもの我が儘だと取り合ってももらえないでしょう?次のお誕生日が終われば、子どものための茶会だけではなく、ご婦人方が主催するお茶会にも出席が出来る様になる、プレ成人になる年齢だもの。それまで待っていたの。時間がかかってしまってごめんなさい。」
ユリアーナの表情は瞬きをする間に曇っていく。
「ユリアーナとヴィレム殿下との縁組みの噂話があるのは知ってる。王太子妃殿下の働きかけでね。」
アンナはその場にしゃがみ込み、ユリアーナの手を両手で優しく握った。
「そんなの、国王陛下からのお話しでもない限り我が家なら断れるわ。まだ正式に何かが来た訳じゃないのだから、先に婚約してしまえば問題ないわよ。それに私、コンスタンティンの事は兄のようにしか感じないの。だって、彼ったら説教くさいし。聖職者と話しているみたいだもん。」
アンナは頬を少し膨らませてから笑顔を作った。それが、ユリアーナの固くなった心を解すためのアンナの思い遣りある仕草であることは直ぐに分かった。
そこに穏やかな風が吹き、アンナの沈む太陽の光を集めたような艶やかで柔らかな髪が風に舞った。ユリアーナはその柔らかい髪を優しく撫で、微笑み返した。しかし、その笑顔はどこか心許ない。
「ねぇ、ユリアーナ。お父様たちに一度自分の気持ちを素直に話してみて。私の我が儘も次のお誕生日まで。もう十四だもの。ユリアーナの様には出来ないけれど、淑女教育も身を入れて頑張るわ。これでもお勉強は今までも頑張っていたのよ。」
ユリアーナは、アンナの手を握り返す。ユリアーナにとってアンナは本当に可愛い妹だ。
「えぇ。知ってる。先生も褒めていたと、お母様が言っていたもの。」
「一度も先生に褒められた事なんてないけど…」
「アンナが調子に乗ってサボらないようにとお母様が口止めをしていたみたい。」
「ひどい。…でもそうね。確かに褒められていたら手を抜いていたかも。」
二人は笑い合った。ユリアーナは握っていた手に少しだけ力を込める。
伯爵家として権力を持つフェルバーン家ならば、政略結婚は避けては通れない事。しかし、政略結婚だとしても相手がコンスタンティンならば、アンナは幸せになれるだろう。
「私たちにとって、結婚相手を自由に選ぶことはとても難しい事よ。アンナが彼をそういう風に見えなかったとしても、結婚相手が彼ならアンナは幸せになれるはず。この縁談が白紙になったら、次にどんな方と縁組みをされるかわからないでしょう?私はアンナに幸せになって欲しいの。」
「お父様もお母様も私たちが幸せにならない縁談は歯牙にもかけないわよ。それに、私は本当に結婚相手は誰でも良いの。ユリアーナはコンスタンティンのことが好きなのでしょう?私、誰かを好きだと言う気持が芽生えるだけで奇跡なんじゃないかと思うの。だから、ユリアーナはコンスタンティンと幸せになって。私、綺麗に自由に羽ばたくユリアーナが見たいのよ。」
「まるで、アンナの方がお姉さんのようね。勉強をしたくないと言って先生やイエットに追いかけ回されていた頃が嘘みたい。いつの間に、こんなにお姉さんになってしまったの?」
ユリアーナは、寂しそうな、嬉しそうな、困った様な表情で笑って、もう一度アンナの柔らかな髪を撫でた。
全知全能の神は、この娘を心から愛しましたが、娘には神の愛が大きすぎたのです。
娘はある夜、神に黙って下界へ降りました。
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フェルバーン家の広大な庭のカレンデュラが咲く一角でユリアーナが物語の冒頭を読んでいると、誰かの気配がした。彼女はヘーゼル色の瞳を上げた。
「コンスタンティン、来ていたの?」
気配の主はコンスタンティン・エイクマンだった。ユリアーナは彼の灰色がかった青色の瞳を見る度に、晴れた秋の空を思い出す。少し冷えているような、温かみのあるような不思議な色合いだった。
彼は、彼女と目が合った瞬間にその目を細め優しく笑った。
二人は同い年で、彼はユリアーナの妹アンナの許嫁。
アンナが八歳の時に許嫁となってから、月に数回アンナのご機嫌伺いに来ている彼は、この屋敷では既に家族のような扱いになっていた。
「来月のアンナの誕生日パーティーの件で。」
「お話しは終わったの?」
「ドレスの最終打ち合わせに時間が掛かっているみたいで。」
ユリアーナは、少しだけ微笑んで頷いた。
「それは、小さい時に読んでいた絵本じゃないの?」
「えぇ。小さい頃からこのお話しが好きだったの。良く分かったわね。」
「絵本の表紙が綺麗だと思ったことを覚えていたんだ。今も読んでいるんだね。どんな内容なの?そんなに面白い?」
ユリアーナはもう何度も繰り返し読んで痛んでしまった絵本を大切そうに撫でた。コンスタンティンは、その姿を微笑ましく見守る。
「女神のイーリスと元は唯の青年だった王様との物語よ。他の物語とは違って、女神が青年を見初めて求婚し、二人で幸せになるの。」
∴∵
ユリアーナの二歳下の妹アンナは、新しいドレスを纏って鏡を見ている。このドレスに合わせようと考えている宝飾品もテーブルいっぱいに広げている。
「イエットどう?この色、肌に合っているかしら?」
「いつもより落ち着いたお色ですが、お似合いでいらっしゃいます。」
アンナ専属のメイド、イエットは素直に褒めた。それを聞いて、アンナは顔をほころばせる。
母のゾフィーもそれを穏やかな顔で見守る。
「ユリアーナに見せに行く。」
イエットが止める間もなく、アンナは走り出してしまった。部屋に残されたゾフィーとイエットは、お互いの顔を見合わせ、困り顔でため息を吐いた。
アンナは屋敷を出て、真っ直ぐに走り続ける。この季節はカレンデュラの咲く場所がユリアーナの定位置だとアンナは知っている。
そこへ向って走っていると、ユリアーナの瞳を映したようなグリーンがかったブラウンのワンピースが目に入った。その前には、コンスタンティンが立っている。
「コンスタンティン、もう来ていたの?」
二人が声の方へ視線を向けると天真爛漫さを前面に出した笑顔のアンナが駆寄ってきた。
「衣装合わせは終わった?」
「えぇ。もう終わるわ。」
「ならば、僕は応接間で待たせてもらうよ。」
コンスタンティンは柔らかく笑うと、その場を去った。アンナはその後ろ姿を見送る。
アンナは ‘そうだ’ と言ってユリアーナの方へ向き直る。
「来月の誕生日パーティー用のドレス、どう?」
アンナは、ドレスの全体を見せるために、くるりと回って見せた。
「とても似合っているけれど、アンナには珍しい落ち着いた色合いね。だけれど、本当にとても似合ってる。素敵よ。」
「ありがとう。私のパーティーまでにまだ時間もあるのだし、ユリアーナも新しいドレス作ったら?コンスタンティンも偶には着飾るユリアーナを見たいと思っているはずよ。」
ユリアーナはアンナの方を見た。アンナは優しく笑う。
「私とコンスタンティンは何かを正式に約束したわけではないわ。許嫁だなんて親同士の口約束に過ぎないし、小さな頃に許嫁として交流していても成人してから正式に婚約に進むことがない場合もあるでしょう?エイクマン家だって、お父様やお母様だってユリアーナとコンスタンティンの結婚を認めてくれるわ。コンスタンティンにはこの後に許嫁の解消を申し出ようと思っているの。」
「どうして急に?」
「急じゃないのよ。二人が想い合っていることは前から気が付いていたの。」
ユリアーナの瞳は僅かに揺れる。
「だけれど、幼い私がいくらお父様やお母様にコンスタンティンとは結婚出来ない、したくないと言ったところで、いつもの我が儘だと取り合ってももらえないでしょう?次のお誕生日が終われば、子どものための茶会だけではなく、ご婦人方が主催するお茶会にも出席が出来る様になる、プレ成人になる年齢だもの。それまで待っていたの。時間がかかってしまってごめんなさい。」
ユリアーナの表情は瞬きをする間に曇っていく。
「ユリアーナとヴィレム殿下との縁組みの噂話があるのは知ってる。王太子妃殿下の働きかけでね。」
アンナはその場にしゃがみ込み、ユリアーナの手を両手で優しく握った。
「そんなの、国王陛下からのお話しでもない限り我が家なら断れるわ。まだ正式に何かが来た訳じゃないのだから、先に婚約してしまえば問題ないわよ。それに私、コンスタンティンの事は兄のようにしか感じないの。だって、彼ったら説教くさいし。聖職者と話しているみたいだもん。」
アンナは頬を少し膨らませてから笑顔を作った。それが、ユリアーナの固くなった心を解すためのアンナの思い遣りある仕草であることは直ぐに分かった。
そこに穏やかな風が吹き、アンナの沈む太陽の光を集めたような艶やかで柔らかな髪が風に舞った。ユリアーナはその柔らかい髪を優しく撫で、微笑み返した。しかし、その笑顔はどこか心許ない。
「ねぇ、ユリアーナ。お父様たちに一度自分の気持ちを素直に話してみて。私の我が儘も次のお誕生日まで。もう十四だもの。ユリアーナの様には出来ないけれど、淑女教育も身を入れて頑張るわ。これでもお勉強は今までも頑張っていたのよ。」
ユリアーナは、アンナの手を握り返す。ユリアーナにとってアンナは本当に可愛い妹だ。
「えぇ。知ってる。先生も褒めていたと、お母様が言っていたもの。」
「一度も先生に褒められた事なんてないけど…」
「アンナが調子に乗ってサボらないようにとお母様が口止めをしていたみたい。」
「ひどい。…でもそうね。確かに褒められていたら手を抜いていたかも。」
二人は笑い合った。ユリアーナは握っていた手に少しだけ力を込める。
伯爵家として権力を持つフェルバーン家ならば、政略結婚は避けては通れない事。しかし、政略結婚だとしても相手がコンスタンティンならば、アンナは幸せになれるだろう。
「私たちにとって、結婚相手を自由に選ぶことはとても難しい事よ。アンナが彼をそういう風に見えなかったとしても、結婚相手が彼ならアンナは幸せになれるはず。この縁談が白紙になったら、次にどんな方と縁組みをされるかわからないでしょう?私はアンナに幸せになって欲しいの。」
「お父様もお母様も私たちが幸せにならない縁談は歯牙にもかけないわよ。それに、私は本当に結婚相手は誰でも良いの。ユリアーナはコンスタンティンのことが好きなのでしょう?私、誰かを好きだと言う気持が芽生えるだけで奇跡なんじゃないかと思うの。だから、ユリアーナはコンスタンティンと幸せになって。私、綺麗に自由に羽ばたくユリアーナが見たいのよ。」
「まるで、アンナの方がお姉さんのようね。勉強をしたくないと言って先生やイエットに追いかけ回されていた頃が嘘みたい。いつの間に、こんなにお姉さんになってしまったの?」
ユリアーナは、寂しそうな、嬉しそうな、困った様な表情で笑って、もう一度アンナの柔らかな髪を撫でた。