薄氷の城

第 20話 揺らぐ

 イルセの妊娠は、ユリアーナの身辺を大きく変化させた。
 この国では婚姻関係を結んで三年間で子を産めなかった時や、七年経っても男子を産めない時は男性側から一方的に離縁を申し出されたとしても世間からは仕方がないとみられてしまう。結婚して丸三年経った去年、ユリアーナは第二子で次女のマリアンネを出産したが、その頃から屋敷内ではユリアーナが離縁されるのではと噂が出始めていた。

「奥様のお母様も結局は男子が産めず、養子をお迎えになったと聞いたし。女系の一族なのでしょうね。」
「奥様のご実家は、養子を迎えたけれど、旦那様はあくまでも自分と血の繋がった子を跡取りにしたいのだから、ご側妻を迎えるんじゃないの?」
「名門伯爵家の正妻がいては、ご側妻のなり手がいないわよ。いくら公爵家の側妻だって言ってもフェルバーン家に睨まれたくはないもの。」
「でも、旦那様がご側妻を迎えて、その方が男子を産んだら、名門家出身と言っても男子の産めない妻は離縁されるんじゃない?」

 ボーはそんな無責任な噂を耳にする度、話しに割って入って一つ一つを訂正して回りたい気持になる。実際一度ユリアーナの噂話をしている下働きを叱ったことがあるが、ユリアーナからはお客様の前や屋敷の主などを前に噂話をするなど、仕事の不手際ではない限りもめ事は起こさない様に注意を受けた。
 そこに、メイドとして雇われていたイルセの妊娠だった。
 イルセの妊娠発覚当初、ユリアーナの妊娠に回りはもちろんユリアーナ自身も気が付いてはいなかった。そのため、イルセの子が男子であった場合、跡継ぎの生母であるイルセが正妻の座に就くのではないかと言う噂はますます真実の様に屋敷内に広まった。そんなある日、
 
「奥様。アンドレーア王太子妃殿下からお手紙が届いております。」

 ヴィレムの侍女だったフェイルは、結婚してからもこの屋敷でメイド頭として仕えてくれている。屋敷内で噂に惑わされず、ユリアーナをここの女主人として敬ってくれる今では数少ないメイドだ。

「荷物は届いている?」

 フェイルがトレイごと手紙を差し出しながら答える。

「はい。届いております。」
「お義母様(かあさま)からなら、きっと仕留めたばかりの鹿肉か何かだと思うわ。私の元に持ってこなくても良いから、すぐに厨房へ渡して頂戴。イルセの食事用だと思うから。」

 ユリアーナはアンドレーアからの手紙を読む。

「やはり、イルセと旦那様の分の鹿肉だそうよ。今日の夕食にイルセに出してあげて。」
「はい。畏まりました。」
「イルセはどう?つわりが酷いと聞いたけれど、お肉は食べられるのかしら?」

 フェイルは、柔和だった顔を少しだけ困った様に歪ませ、首を振る。
 
「しかし、妊婦が肉を食べたくなると、男子が生まれると昔からの言い伝えがございますから。」
「食べたくなればの話しでしょう?気分が優れないのに無理に肉を食べさせるのは、あまり良くないんじゃないかと思うのだけれど。」
「えぇ。旦那様にも無理に食べさせない様に申しましたが、肉を食べれば男が産まれるんだと言うばかりで。」
「私からも、もう一度言ってみるわ。イルセは日に日に顔色が悪くなるものね。良い状態には見えないわ。」

 ユリアーナのこの親切心は、屋敷の中で歪んで伝わり、メイドや下働きたちは自分が妻の座を下ろされない様に、画策しているんだと噂し始めた。
 貴族ではあるものの、下位で裕福ではない出自のイルセが男児を産み、公爵夫人になれば、多くのメイドの憧れになる。元が格式高い出自のユリアーナは、物腰は柔らかくとも、メイドたちから見れば近づきがたい人物だ。それを退け、親しみやすいイルセが夫人の座に就くことを口にはしないまでも、応援している者が多かった。

 
∴∵
 
 
「今日は随分と、物音がするのね。」

 部屋で本を読んでいたユリアーナは、聞き慣れない人の声や、物音が気になった。

「王太子妃殿下より、イルセ様のお部屋のものを新調するようにと、沢山の調度品が運ばれて来まして。」

 ボーは、泣き出しそうな顔をする。

「しかも、誰が言い出したのか三階の客間のある場所から、ご夫妻のプライベートスペースのある二階へと勝手にお部屋を移動されて…今後奥様がお産みになるお子様用に空けている部屋でございますのに。」
 
 王族と結婚して新居を整える時、居室の調度品は妻側が整える事になっている。
 今、ユリアーナが座っている椅子も、大食堂の大テーブルも、カーテンなどのファブリックに至るまで、用意したのはエルンストとゾフィーだった。
 イルセの様に実家に経済力のない側妻を娶った場合は、正妻が面倒をみる事にもなっている。
 そのため、人によっては使い古しをあてがったり、悪趣味な物をあてがったりすることもある。
 ユリアーナがイルセのために用意したのは、国内では特級品と言われている木材で作った家具だった。
 これは、フェルバーン家でも使っている物で、丁寧に使えば三代で使える代物だ。実際、実家でユリアーナが使っていたワードローブはエルンストの叔母が使っていた物だった。だからこそ、装飾も控えめで、流行に惑わされないデザインになっている。それが裏目になってしまい、当てつけにわざと粗末な物を用意したと誰かが言い出した話は、まるでユリアーナがそう発言したかのように噂話として広がった。
 更に、悪いことに使っているイルセ自体がその高級さに気付いておらず、メイドのネスにその事を良く愚痴っていた。
 ユリアーナがボーの不服そうな様子を見て、なだめているとフェイルが入って来た。

「奥様、王太子妃殿下よりお手紙でございます。」

 ユリアーナは、手紙を受け取り、ゆっくりと開いた。
 アンドレーアの綺麗で整った癖のない字が今日は何だか自分を強く突き放している様に感じた。
 
「お義母様には気配りが足りない私のせいでお手間をかけてしまって申し訳なかったわ。」
「妃殿下は何と?」

 いつも、ユリアーナが自らで話そうとしない限り、手紙の内容を聞いてきたりしないフェイルが珍しく聞いてきた。心配そうにこちらを見ているフェイルを見て、自分が暗い表情をしている事に気が付き、自分の不注意を反省した。軽く咳払いをして話し始めた。出来るだけ何でもないことの様に、二人に心配をかけない様に。

「イルセが、お義母様に調度を一新してくれる様にお願いしたみたい。私が用意した調度が低質なものだから、これから産まれる王子の部屋には相応しくないと。」

 そう言って、ユリアーナは静かに手紙を折りたたんで封筒にしまった。

「そんな。あれは…」
「フェイル、古い調度の置き場所はあるかしら?」
「はい。」
「でも、チーク材のしっかりとした作りのものだから寝かせておくのも寂しいわね…ねぇ、フェイル。貴女は個室を割り当てられているでしょう?良かったら使ってくれないかしら?」
「そんな、私のような者が宮殿でも使われる様な高級な調度を使わせて頂くわけには…」
「彼女の部屋を整える時、今後、イルセの元に子が生まれても代々使い続けられるものをと思って選んだのだけれど、彼女の趣味ではなかったみたいだから。人に何か差し上げる時には、自分の価値観よりも相手に思いを巡らせないといけなかったわ。私の落ち度なの。」

 フェイルは悲しい様な困った様な複雑な表情を見せる。ユリアーナはできる限り明るい表情を作った。

「だから、自分の失敗を取り繕うためなのよ。協力してちょうだい。」
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