薄氷の城
第 27話 彼の国
プリズマーティッシュへの外遊を一ヶ月後に控えて、ユリアーナは彼の国のマナーなどを習っていた。講師はエシタリシテソージャの子爵夫人でプリズマーティッシュへ留学経験を持つ、フロリアナ。夫はこの国の騎士団に派遣されている騎士、サヴァーノ・チーニ。
「又、プリズマーティッシュでは下位の者から声を掛けてもマナー違反にはなりません。」
「仮に、国王陛下がお相手でも、お声かけを頂く前に、こちらから話しても構わないという事ですか?」
「はい。しかし、この国で淑女教育をお受けになったユリアーナ様には違和感を覚える振る舞いだと思いますから、お声かけ頂いてから話し始めても問題はございません。ただ、プリズマーティッシュの下級貴族や使用人がユリアーナ様に話しかけたとしても、あちらではマナー違反ではないことだけは胸に止めておいて下さい。」
「はい。わかりました。」
フロリアナは、ユリアーナの返事に少しだけ困った様な表情をする。講師とは言っても、子爵夫人であるフロリアナに公爵夫人のユリアーナが敬語を使うのは作法に反する。それをユリアーナに伝えると、自分を教え導いてくれる方には敬意を表さなければならないと言い、頑なに言葉を直さない。
フロリアナがエパナスターシに来たのは、サヴァーノと結婚して三年目のことだった。第二子はこの国で出産した。平均五年ほどで任期を終え、エシタリシテソージャへ帰るので、そろそろエシタリシテソージャへ帰ることになるだろうと思っている。この国はエシタリシテソージャの影響が強く、プリズマーティッシュに留学していた四年間よりもずっと過ごしやすい環境だった。
「私は、十四歳からの四年間をプリズマーティッシュで過ごしました。私が、母国も合わせ住んだ三カ国の中でプリズマーティッシュは異質な国と見えました。現国王はこの大陸では珍しい漆黒の髪で、強力な魔力の持ち主。その王妃は、三十年前に救世主召喚で喚ばれた渡り人。国王はこの王妃の意のままになっていると噂です。」
ユリアーナは何も言わず、彼女の話しに耳を傾けていたが、フロリアナは急に口を閉じた。
「先生?どうかなさいましたか?」
「ユリアーナ様が私を師として尊敬をして下さったのに、いらぬ事を申し上げるところでした。私が今話そうとしたことは、全て私の主観によるものでした。お忘れ下さい。大切な事は、ユリアーナ様が彼の国へ行き、何を見てどう感じるのかでした。聡明な貴女が私から申し上げるお話しで、いらぬ先入観を持つ事はないのかもしれませんが、お耳に入れることでもありませんでした。ただ、申し上げるとするならば、プリズマーティッシュは、私の母国ともこの国とも全く異なる文化や常識があると言う事です。」
「心に刻みました。フロリアナ先生は、十四歳で留学をされたのですか?エシタリシテソージャではそれが普通なのですか?」
「一昔前までは、赤と橙の強い魔力を持つ方たちだけが留学をしていました。この国と同じくエシタリシテソージャにも青年期の者たちを教える魔術に特化した教育機関がないと言う事も理由の一つですが、赤や橙は王族しか持たない強い力ですので、王族が彼の国に留学する事は外交の一部として考えられてきたためです。しかし、リオ王妃が魔術の専門的な勉強をしたいと願う者に広く門戸を開こうと言った事が切っ掛けになり、二十年程前から魔力や貴賤に関係なく年に五名、他国からの留学生を無償の奨学金で入学させています。選考基準がとても厳しいですが、我が国では毎年必ず数名がその奨学金で留学をしています。今では彼の国への留学は下位貴族までごく一般的に行われています。」
そんな制度が二十年も前からあるのなら、何故この国にその情報が入っていないのか、不思議に思いながらもユリアーナはその疑問を口には出さなかった。
「フロリアナ先生も魔力をお持ちなのですか?」
フロリアナはコクリと頷いて、ユリアーナが使っていた羽ペンをフワリと宙に浮かせた。
「魔力を持って生まれた者が、適齢期になり、神の泉で洗礼を受けて精霊の加護を頂くと魔術が使えるようになります。ただ、精霊の加護はその国ごとにあるものですから、国を渡ると洗礼を受け直さなくてはなりません。私は、こちらへ赴任してきて直ぐに神の泉で洗礼を受け直しましたので、この国でも魔力を使うことは出来ます。しかし、私は決して魔力が強いわけではありませんので、このような事が少し出来るだけでございます。」
浮いていた羽ペンは、空でユリアーナの名前を書いて、前に置いてあった用紙の上に静かに着地した。ユリアーナはその一部始終をまるで少女のような輝いた瞳で見ていた。
「全く魔力のない私から致しますと、この様なことでもとても神秘的に感じます。」
「彼の国は、王族はもちろん、貴族でも魔力が強い方が多く、我が国と違い、平民にも魔力の保有者がいるほどです。王宮に勤める侍女はもちろん、貴族の屋敷に勤めるメイドの多くが魔術を使えます。そのように魔術が生活に密着している国ですから、外遊の際は沢山の魔術に触れることになると思いますので、楽しみにして頂いてよろしいと思います。それでは、今日はここまでです。」
「本日もご教示下さいまして、ありがとうございました。」
「では、また二日後にお会い致しましょう。」
ユリアーナの合図で、執事が玄関までフロリアナを送る。
筆記具を片付けるユリアーナに、ボーは声を掛ける。
「奥様、午後のお茶のご用意を致しますね。それと、旦那様からお手紙が届いております。」
ボーはトレイに乗せた封筒をユリアーナに差し出す。
ユリアーナとヴィレムは婚姻関係を継続していくことで話しがまとまっているが、一ヶ月後には子供たちを置いて長期の外遊に向わなければならない。そのことを考えると、子供たちの環境を今、変えてしまうことは良くないことに思えて、フェルバーン家にそのまま暮らしている。
ヴィレムは、執務が終わるとまずフェルバーン家へ顔を出し、娘たちと遊び、ユリアーナと今日の出来事などを話したりして、二時間ほど過ごしてから城へ帰るようになった。それとは別に、一週間に一通程手紙を送ってくる。こちらの内容も取り留めのないものだが、ユリアーナにとってはヴィレムの新しい面を僅かだが見られた気がして嬉しかった。
「ボー。旦那様が今日の夕食は、こちらで食べたいと言っているから、旦那様の分も用意してもらえる?」
「はい。かしこまりました。先日王妃陛下よりお野菜を沢山届けて頂きましたから、そちらを使ってもらえるよう伝えておきます。」
「前に食べた、挽肉となすの重ね焼きをとても喜んで召し上がっていたから、もし作れるのなら、重ね焼きをお願いしてもらえる?」
「はい。料理長へ確認して参ります。」
「えぇ。お願いね。」
ボーは、 ‘失礼します’ と断わって、部屋を出て行った。
∴∵
ヴィレムは、いつもの様に執務を終えた後、フェルバーン家へやって来て、娘たちの相手を小一時間ほどしてから夕食の席に着いた。
「ここの挽肉となすの重ね焼きはいつ食べても美味しいね。」
「前に、旦那様が美味しそうに召し上がっていらっしゃったので、お願いをしました。お口に合って良かったです。料理長にも伝えておきます。」
テーブルの正面に座ったユリアーナは、本当に嬉しそうに微笑んだ。思い返せば、こんな笑顔を自分は何年も見れずにいた。そればかりか、マリアンネが生まれてから彼女の顔をまともに見ていなかったように思う。そんな接し方なのだから、相手が笑顔を見せてくれるはずもない。
「あぁ。感謝を伝えておいてくれ。それで、今日はサヴァーノ・チーニのご夫人の講義の日だったね。」
「はい。フロリアナ様にはプリズマーティッシュでの礼儀作法のご指導をお願いしています。留学経験がおありになるので、興味深いお話しをお伺いしています。」
「私の方でも色々と講義を受けているが、あの国特有の良識があるようだな。我が国とは何もかもが違いすぎる印象だ。そもそも、強力な魔力を持っているとしても、渡り人を王妃に迎え、その王妃が産んだ子に王位を継がせるなど・・・。女ならばエシタリシテソージャのように側近の侯爵家などに嫁がせるのならば理解は出来るが・・・。王族の一員にするなど。」
「プリズマーティッシュは、王族だけではなく貴族の中にも強い魔力の保有者がいるのだと伺いましたから、王族以外にそれに匹敵する魔力を持たせないためなのではないですか?貴族が同じ力を持てば、それによる強引な政変なども起りうるでしょうから。」
「そうかもしれないが、王族に他国どころか、異世界の血を入れるなど、この国では考えられない。」
「えぇ。確かにこの国では考えられないことですね。けれども、旦那様。異世界とはどんなところか知りたくはありませんか?私はプリズマーティッシュのリオ王妃陛下と謁見し、お話しさせて頂く事をとても楽しみにしています。」
ユリアーナは、今日フロリアナに魔術を見せてもらった時のような輝いた目をしている。
「私、フロリアナ様に少しだけ魔術を見せて頂きました。何とも神秘的で・・・不思議な現象でした。私、もっとプリズマーティッシュの事が知りたいです。」
「又、プリズマーティッシュでは下位の者から声を掛けてもマナー違反にはなりません。」
「仮に、国王陛下がお相手でも、お声かけを頂く前に、こちらから話しても構わないという事ですか?」
「はい。しかし、この国で淑女教育をお受けになったユリアーナ様には違和感を覚える振る舞いだと思いますから、お声かけ頂いてから話し始めても問題はございません。ただ、プリズマーティッシュの下級貴族や使用人がユリアーナ様に話しかけたとしても、あちらではマナー違反ではないことだけは胸に止めておいて下さい。」
「はい。わかりました。」
フロリアナは、ユリアーナの返事に少しだけ困った様な表情をする。講師とは言っても、子爵夫人であるフロリアナに公爵夫人のユリアーナが敬語を使うのは作法に反する。それをユリアーナに伝えると、自分を教え導いてくれる方には敬意を表さなければならないと言い、頑なに言葉を直さない。
フロリアナがエパナスターシに来たのは、サヴァーノと結婚して三年目のことだった。第二子はこの国で出産した。平均五年ほどで任期を終え、エシタリシテソージャへ帰るので、そろそろエシタリシテソージャへ帰ることになるだろうと思っている。この国はエシタリシテソージャの影響が強く、プリズマーティッシュに留学していた四年間よりもずっと過ごしやすい環境だった。
「私は、十四歳からの四年間をプリズマーティッシュで過ごしました。私が、母国も合わせ住んだ三カ国の中でプリズマーティッシュは異質な国と見えました。現国王はこの大陸では珍しい漆黒の髪で、強力な魔力の持ち主。その王妃は、三十年前に救世主召喚で喚ばれた渡り人。国王はこの王妃の意のままになっていると噂です。」
ユリアーナは何も言わず、彼女の話しに耳を傾けていたが、フロリアナは急に口を閉じた。
「先生?どうかなさいましたか?」
「ユリアーナ様が私を師として尊敬をして下さったのに、いらぬ事を申し上げるところでした。私が今話そうとしたことは、全て私の主観によるものでした。お忘れ下さい。大切な事は、ユリアーナ様が彼の国へ行き、何を見てどう感じるのかでした。聡明な貴女が私から申し上げるお話しで、いらぬ先入観を持つ事はないのかもしれませんが、お耳に入れることでもありませんでした。ただ、申し上げるとするならば、プリズマーティッシュは、私の母国ともこの国とも全く異なる文化や常識があると言う事です。」
「心に刻みました。フロリアナ先生は、十四歳で留学をされたのですか?エシタリシテソージャではそれが普通なのですか?」
「一昔前までは、赤と橙の強い魔力を持つ方たちだけが留学をしていました。この国と同じくエシタリシテソージャにも青年期の者たちを教える魔術に特化した教育機関がないと言う事も理由の一つですが、赤や橙は王族しか持たない強い力ですので、王族が彼の国に留学する事は外交の一部として考えられてきたためです。しかし、リオ王妃が魔術の専門的な勉強をしたいと願う者に広く門戸を開こうと言った事が切っ掛けになり、二十年程前から魔力や貴賤に関係なく年に五名、他国からの留学生を無償の奨学金で入学させています。選考基準がとても厳しいですが、我が国では毎年必ず数名がその奨学金で留学をしています。今では彼の国への留学は下位貴族までごく一般的に行われています。」
そんな制度が二十年も前からあるのなら、何故この国にその情報が入っていないのか、不思議に思いながらもユリアーナはその疑問を口には出さなかった。
「フロリアナ先生も魔力をお持ちなのですか?」
フロリアナはコクリと頷いて、ユリアーナが使っていた羽ペンをフワリと宙に浮かせた。
「魔力を持って生まれた者が、適齢期になり、神の泉で洗礼を受けて精霊の加護を頂くと魔術が使えるようになります。ただ、精霊の加護はその国ごとにあるものですから、国を渡ると洗礼を受け直さなくてはなりません。私は、こちらへ赴任してきて直ぐに神の泉で洗礼を受け直しましたので、この国でも魔力を使うことは出来ます。しかし、私は決して魔力が強いわけではありませんので、このような事が少し出来るだけでございます。」
浮いていた羽ペンは、空でユリアーナの名前を書いて、前に置いてあった用紙の上に静かに着地した。ユリアーナはその一部始終をまるで少女のような輝いた瞳で見ていた。
「全く魔力のない私から致しますと、この様なことでもとても神秘的に感じます。」
「彼の国は、王族はもちろん、貴族でも魔力が強い方が多く、我が国と違い、平民にも魔力の保有者がいるほどです。王宮に勤める侍女はもちろん、貴族の屋敷に勤めるメイドの多くが魔術を使えます。そのように魔術が生活に密着している国ですから、外遊の際は沢山の魔術に触れることになると思いますので、楽しみにして頂いてよろしいと思います。それでは、今日はここまでです。」
「本日もご教示下さいまして、ありがとうございました。」
「では、また二日後にお会い致しましょう。」
ユリアーナの合図で、執事が玄関までフロリアナを送る。
筆記具を片付けるユリアーナに、ボーは声を掛ける。
「奥様、午後のお茶のご用意を致しますね。それと、旦那様からお手紙が届いております。」
ボーはトレイに乗せた封筒をユリアーナに差し出す。
ユリアーナとヴィレムは婚姻関係を継続していくことで話しがまとまっているが、一ヶ月後には子供たちを置いて長期の外遊に向わなければならない。そのことを考えると、子供たちの環境を今、変えてしまうことは良くないことに思えて、フェルバーン家にそのまま暮らしている。
ヴィレムは、執務が終わるとまずフェルバーン家へ顔を出し、娘たちと遊び、ユリアーナと今日の出来事などを話したりして、二時間ほど過ごしてから城へ帰るようになった。それとは別に、一週間に一通程手紙を送ってくる。こちらの内容も取り留めのないものだが、ユリアーナにとってはヴィレムの新しい面を僅かだが見られた気がして嬉しかった。
「ボー。旦那様が今日の夕食は、こちらで食べたいと言っているから、旦那様の分も用意してもらえる?」
「はい。かしこまりました。先日王妃陛下よりお野菜を沢山届けて頂きましたから、そちらを使ってもらえるよう伝えておきます。」
「前に食べた、挽肉となすの重ね焼きをとても喜んで召し上がっていたから、もし作れるのなら、重ね焼きをお願いしてもらえる?」
「はい。料理長へ確認して参ります。」
「えぇ。お願いね。」
ボーは、 ‘失礼します’ と断わって、部屋を出て行った。
∴∵
ヴィレムは、いつもの様に執務を終えた後、フェルバーン家へやって来て、娘たちの相手を小一時間ほどしてから夕食の席に着いた。
「ここの挽肉となすの重ね焼きはいつ食べても美味しいね。」
「前に、旦那様が美味しそうに召し上がっていらっしゃったので、お願いをしました。お口に合って良かったです。料理長にも伝えておきます。」
テーブルの正面に座ったユリアーナは、本当に嬉しそうに微笑んだ。思い返せば、こんな笑顔を自分は何年も見れずにいた。そればかりか、マリアンネが生まれてから彼女の顔をまともに見ていなかったように思う。そんな接し方なのだから、相手が笑顔を見せてくれるはずもない。
「あぁ。感謝を伝えておいてくれ。それで、今日はサヴァーノ・チーニのご夫人の講義の日だったね。」
「はい。フロリアナ様にはプリズマーティッシュでの礼儀作法のご指導をお願いしています。留学経験がおありになるので、興味深いお話しをお伺いしています。」
「私の方でも色々と講義を受けているが、あの国特有の良識があるようだな。我が国とは何もかもが違いすぎる印象だ。そもそも、強力な魔力を持っているとしても、渡り人を王妃に迎え、その王妃が産んだ子に王位を継がせるなど・・・。女ならばエシタリシテソージャのように側近の侯爵家などに嫁がせるのならば理解は出来るが・・・。王族の一員にするなど。」
「プリズマーティッシュは、王族だけではなく貴族の中にも強い魔力の保有者がいるのだと伺いましたから、王族以外にそれに匹敵する魔力を持たせないためなのではないですか?貴族が同じ力を持てば、それによる強引な政変なども起りうるでしょうから。」
「そうかもしれないが、王族に他国どころか、異世界の血を入れるなど、この国では考えられない。」
「えぇ。確かにこの国では考えられないことですね。けれども、旦那様。異世界とはどんなところか知りたくはありませんか?私はプリズマーティッシュのリオ王妃陛下と謁見し、お話しさせて頂く事をとても楽しみにしています。」
ユリアーナは、今日フロリアナに魔術を見せてもらった時のような輝いた目をしている。
「私、フロリアナ様に少しだけ魔術を見せて頂きました。何とも神秘的で・・・不思議な現象でした。私、もっとプリズマーティッシュの事が知りたいです。」