薄氷の城

第 28話 エヴァリスト

 三月の中頃、桃色のアーモンドの花があちらこちらで見頃になっていた。

「エヴァリスト、ちょうど良いところにいた。これを、神官長のジョルジュ様に渡しておいて頂戴。」
「畏まりました。聖徒様。」

 神殿の長い廊下をエヴァリストは神官長室に向って歩く。その後ろ姿を聖徒のリュシーは見つめる。自分に付いている神官のコームに話しかける。

「ジョルジュ様が自分付きの下働きに雇うとお決めになっても、大丈夫か心配だったけれど、大丈夫そうで良かった。」
「そうですね。さぁ、リュシー様参りましょう。治療所で沢山の人たちが待っています。」
「えぇ。そうね。」

 神官のコームは、リュシーに笑いかけて、二人は診療所に向った。

 
∴∵
 

「神官長様失礼致します。リュシー聖徒様から書類を預かって参りました。」

 ノックの音にジョルジュが返事をすると、エヴァリストが入って来て書類を寄越してきた。
 
「ありがとう。エヴァリスト。どうだ?ここでの仕事は慣れたか?」
「はい。おかげさまで。」
「ルイ大尊者様の治療で魔獣に襲われた傷や痛みが治ったと言っても、今はまだ戸惑うこともあるだろう。あまり焦らずにまず環境に慣れることを優先した方が良い。今日はもう帰りなさい。ご家族もまだ心配されているだろう。」
「ありがとうございます。」

 エヴァリストは神殿前で客待ちしている辻馬車に乗って、自宅へ向う。彼はちょっとした時間が出来ると自分の今までの事を自ずと回想してしまう。

∴∵

 始まりは六年前のある日、目を覚ますと若い女性が心配そうに自分を覗き込んでいた。彼女はこちらを見て何か一生懸命に呼びかけていた。彼女が自分の妻だと言う事は、(のち)に同居しているらしい、自分の祖父だと言っている人から聞いた。
 目覚めたとき、二人に何度も何かを尋ねられた。心配してくれているのだろう事は表情で理解出来たから、頷いたり、声を出したかったが、そうしたくとも痛くないところがないほど全身が痛く、指先が僅かに動かせるかどうかな状態で、意思表示もままならなかった。
 毎日、彼女が煎じてくれる薬草茶は、暫く味覚が麻痺するくらいに独特の痺れと苦みを感じるが、痛みには良く効く様で、それを飲めば、痛みでうなされることもなく、眠ることができた。彼女の献身的な看病のおかげで半年後には起き上がることが出来るまで回復した。しかし、魔獣に襲われて負ったと言われた傷は、背中や腹の至る所に残っていて、その傷跡だけで自分が生死の境を彷徨っていた事は想像できた。しかしながら、出来るのは想像する事だけで、何一つ覚えていなかった。自分の名前はもちろん、その日に何故、魔獣が現れるような森に行ったのか、それ以前はどうやって生活していたのかも。その上、話し言葉や文字も忘れてしまっていた。
 そんな自分に言葉や、日々のことを教えてくれたのは、妻のエディットだった。
 魔獣に襲われた後遺症で、左足と右肩が思うように動かなかった。特に右肩は少し動かすだけで痛みを伴い、祖父と一緒にやっていたらしい鍛冶も思うように出来なくなった。

∴∵
 
 辻馬車の御者が、目的地に到着したことを知らせる。そこから直ぐのパン屋へ寄って家へ帰った。

「帰ったよ。エディット。」
「お仕事お疲れ様。エヴァリスト。」
「パンを頼まれていたけど、白パンがなくて、黒パンになってしまったけど大丈夫だろうか?」
「大丈夫。白パンは人気で午前中に買いに行かないといつも売り切れてしまうの。」
「そうなんだね。おじいさんは?」
「仕事を手伝いにブノワさんのところへ行ってる。」

 年が明けてすぐに四歳の誕生日を迎えた長男ジョセフと次男のダニエルがエヴァリストの足にまとわりつく。エヴァリストは愛おしそうに二人の頭を撫でた。

「おじいさんももう帰って来る頃だし、ご飯すぐに作るから座って待ってて。」
「わかった。ジョセフとダニエルは今日一日何して遊んでたんだ?」

 エヴァリストは二人を椅子に座らせて、自らも座った。ジョセフとダニエルはお絵かきの続きを始めた。

∴∵
 
 目覚めてから一年を迎える頃には薬草茶を飲みながらではあるが、仕事も生活もある程度自由に出来るようになっていた。けれども記憶は戻らなかった。何かの切っ掛けになるかと、二人の馴れ初めも聞いたが、自分のものだとは思えなかった。
 そのような生活の中でも祝い事はあり、二人の息子にも恵まれた。仕事も順調で、贅沢をしなければ家族五人、人並みに生活できる様になっていた。
 ところが、ある時から痛み止めの薬草が手に入らなくなった。薬草茶を飲めなくなって、鍛冶の仕事はもちろん生活にも差し障りが出るようになってしまった。鍛冶の腕は良いものの老齢で体に無理が利かなくなった祖父だけでは家族全員を養うのは難しく、食事は子供たちの分を手に入れるだけが精一杯になってしまった。ただでさえ、自分の足が不自由な事で山を下れず、重い鋤や鍬などの農具を背負って町へ売りに出ているエディットには申し訳ない気持でいっぱいだったのに。幸い、水場は家から近く、ほんの少しの勾配がある程度で痛みのある体でも時間をかければ往復することは出来た。だから桶一つを持って水を汲みに行っていた。
 そんなことをしていたある日、女性に話しかけられた。

「いつも体が痛そうにしているけど、どこか怪我しているの?」

 興味本位と言うよりも、本当に心配してくれていそうな彼女に、魔獣に襲われ後遺症があることを話した。彼女は不思議そうな顔をして、尋ねた。

「町へ行けば聖徒様が無料で治してくれる診療所が設置されることもあるのに、そこへはどうして行かないの?古い傷も治してもらえるでしょう?」

 そんな制度があるならば、エディットは何故教えてくれなかったのだろうか。下山だってゆっくりならばどうにか出来る。一日で往復は出来ないけれど、診療所の開設に合わせて下山すれば良いだけの話しだ。

「怪我を負って、起き上がれるようになったのもつい最近の事で・・・一生懸命介抱してくれた妻のために、少しずつでも水汲みが出来れば良いと思って来ていたので・・・ところで、その無料の診療所は次はいつ来るのか分かりますか?」
「あら、つい最近まで臥せっていたのね。なら、動けるくらいにはなって良かったじゃない。次の診療は確か・・・前回が冬だったからもうそろそろじゃないかしら。」

 女性は誰かを見つけたようで ‘あっ’ と言って妙齢の女性に声を掛けた。

「リゼット。あなたのお父さん怪我して次の診療所で診てもらうって言っていなかった?」
「うん。その予定。大した怪我じゃないけど肘を痛めたみたいで。」
「いつ行くの?そろそろじゃない?」
「そうよ。明後日。紹介状がないから早めに出て並ばないとって言ってる。」
「そう。お父さんにお大事にって伝えておいて。」
「ありがとう。じゃあね。」
「えぇ。じゃあね。」

 リゼットと呼ばれた女性は、重そうな桶を慣れた動作で頭に乗せて水場を離れた。

「来週だって。ちょうど良かったじゃない。確実に診てもらいたいなら前日から行っていた方が良いかもね。」
「そうですね。ご親切にありがとうございました。」
「いいえ、あなたもお大事にね。診てもらえることを祈ってるわ。」

 そう言って、彼女も頭に桶を乗せて水場を去って行った。
 水を持ち帰り、祖父のユーグが薪拾いに行き、子供たちが昼寝を始めたのを見届け、山を下りた。
< 34 / 69 >

この作品をシェア

pagetop