薄氷の城

第 29話 旅支度

 四月に入り、ゼフェン・プリズマーティッシュ・クルウレンへの出発は半月後に迫っていた。クリストッフェルは長い廊下を歩き扉の前に立ち止まった。彼はどっしりとそこに在る扉が、中で自分を待っている人の威厳を表しているようだと思った。騎士が声かけをすると、中から返事があり扉が開く。

「待っていたわ。クリストッフェル。そこへお座りなさい。」
「はい。陛下。」

 王妃ルーセは、七十五歳とは思えぬほどに肌にも髪にも艶があり、若い頃宝石のようだと称えられていた琥珀色の瞳は今も美しいが、国を守ると言う重大な責任のために鍛えられた内面の強さが、その瞳に映し出されているようだった。

「プリズマーティッシュへの外遊を前に、あなたに爵位を与えようと考えています。公爵として他国へ赴く責任をあなたも十分理解出来るわね。」
「はい。陛下。」
「叙爵の儀は一週間後に執り行います。本来なら結婚を機会にして与えられるもので、このような形は特例です。・・・私の力不足であなたに良い縁をあげられないことを心苦しく思っているのよ。」
「いいえ。陛下。私に縁がないのは私の不徳の致すところ。己の不甲斐なさに日々申訳なく思っております。」

 クリストッフェルは、伏せていた視線を戻してルーセを真っ直ぐに見た。

「公爵として、王太子殿下並びに王太子妃殿下とアルテナ公爵夫妻を、この身を挺しお守りすることを陛下に誓います。」
「立派な心構えです。陛下もあなたの働きに大変期待しておいででしたよ。」
「両陛下のご期待に応えられるよう注力致します。」


∴∵


 王城を出発した三台の馬車は三時間ほど走り続け、大きな門扉の前で止まる。鉄製の門扉が開き、中へ入ると、舗装された馬車道が続く。王都の端にあるこの町はポーリタンタンフォ。歴代の王族が眠る大きな霊殿が一つの町になっている。
 今日は、プリズマーティッシュへ旅立つ王太子夫妻を初めとした王族が祖先である歴代の王族に出立の挨拶に来ていた。
 馬車が門扉を通り抜けてから更にゆっくり進み十分程で建物の入り口に着いた。霊殿の管理者が五人を恭しく迎える。

「王太子マウリッツ殿下、王太子妃アンドレーア殿下、アルテナ公爵ヴィレム殿下、公爵妃ユリアーナ殿下、ドンデレス公爵クリストッフェル殿下。お待ち申し上げておりました。まずは、控え室にご案内致します。」

 緩やかな階段を四十段近く上り、白い石造りの建物に入ると明らかにひんやりとした空気を肌に感じた。
 式典の際には、この空間に楽団が並び、音楽を奏でている。ユリアーナは幼少の頃、式典に参加したことがあったのでこの空間に来たのは初めてではなかったが、今日は寂然(じゃくねん)としていて自分の呼吸の音さえも響き渡っているような感覚になる。
 通路をゆっくりと歩いた先に重々しい両開きの扉があり、扉の前にいる二人の男性がそれを手前側に開く。その扉を通ると、通路を挟んで両側に長椅子がいくつも並べてあった。

「こちらが、祭壇へ入る前の控えの部屋となっております。どうぞ、おかけ下さい。」

 その合図で、五人は腰掛ける。侍従や護衛の騎士は、後ろの扉の前に待機している。
 管理者が礼拝の手順を細かく説明する。

「これから、奥の祭壇の間へ参りますが、ここから先は王族の方のみ、お付きの方たちはこちらでお待ち下さい。」

 管理者が、扉を開いて五人を中へ促す。扉が再び閉じると、その場に息苦しいくらいの静寂がやって来た。


∴∵


 ゼフェン・プリズマーティッシュ・クルウレンへの出発の日になった。ヴィレムは朝早くにフェルバーン家にやって来ていた。
 
「お父様は、遠いところへ行くのでしょう?」
「あぁ。だからエフェリーンやマリアンネ、アンドレとは暫く会えなくなってしまうんだ。」
「でも、お母様と大切なお仕事をしに行くのだと、シーラが言っていたから。私、泣かずに待っているわね。」
「エフェリーン、お父様に何て言うの?」
「お父様、気をつけていってらしてね。エフェリーンも沢山お勉強して良い子にしています。」
「あぁ。ありがとう。エフェリーン。」
「さぁ、お嬢様方。朝食の準備が出来ましたからお部屋に戻りましょうね。」

 エフェリーンの乳母のシーラが声を掛けると、マリアンネの乳母アマリアがマリアンネの手を取った。ヴィレムはアンドレを乳母のマリケに預ける。子供たちが出て行き、二人っきりになった部屋で、ヴィレムはユリアーナを突然抱きしめた。

「旦那様?私は外遊にご一緒致しますよ?」
「もちろん分かっている。ただ、毎日子供たちに会っていたら、今までどうして会わずにいられたのか不思議に思うほどで・・・」

 ユリアーナはその言葉を聞いて、ヴィレムの背中に手を回し、優しく撫でた。

「旦那様のお気持ち、お察し致します。私も子供たちと長く離れるのはとても寂しいです。」


∴∵


 四月十六日、ヨハン王とルーセ王妃から見送られた王太子一行は外遊のため出発した。行きはエパナスターシを経由し、五十二日間かけてゼフェン・プリズマーティッシュ・クルウレンを目指す。長期間の旅に慣れていない王太子妃やご婦人方を伴った外遊のため、一日の移動距離は二十㎞程度を予定している。
 今までにこの様な大がかりな外遊が実施されたことはなく、馬車の列を一目見ようと、人々が押し寄せた。
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