薄氷の城
痛みがあり、自由に動かすことも出来ない足で山を下りるのは思っていた以上に大変だった。町に出られたのは診療所が開設する当日だった。
エディットの話しによれば、この町の道具街の一角に祖父ユーグの営む店があったようだ。ユーグは大変腕の良い鍛冶職人で、彼の野鍛冶屋はとても繁盛していたと聞いた。しかし、息子のギョームは自堕落な生活を送っていて、その息子が作った膨大な借金のせいで彼の妻は行方をくらまし、店は手放さなくてはならなくなった。更にギョームの起こしたもめ事のせいで住み慣れた町にも住みづらくなって山奥に住み替えたと聞いた。
ユーグやエディットが町の診療所へ自分を行かせたくなかったのもその事が関わっているのかもしれないと思い、少しうつむき加減で歩いていた。まだ人の顔もハッキリと見えない薄暗さの残る時間帯にも関わらず、荷馬車などがあちこちに向って走っている。
「ちょっと、きみ。」
明らかに自分にかけられた声は、知人なのかそれとも自分の父の知人なのか今の自分には判断できない。聞こえなかったふりをして進もうと思ったとき、肩に手が置かれた。
「足、不自由なの?今日の診療所へ行く人?その足じゃ歩くのも辛いでしょ?俺は診療所の先の市場に野菜を卸しに行く所だから荷台で良ければ乗って行きなよ。」
「いいえ、大丈夫です。」
「その足じゃ、着いた頃には長蛇の列だよ。それに、俺はどうせその横を通るんだから、ついでだ。」
考え込んでいると、青年は人の良さそうな笑顔を向ける。
「さぁ、乗りな。」
「ありがとう。」
「いいよ。俺も記憶のないくらい小さな頃に顔の傷を治してもらったんだ。きみの怪我も治ると良いね。もし、お腹が空いているなら積んだ野菜食べて良いよ。うちの自慢。御料牧場と同じ土壌で育った野菜だから栄養満点で美味しいよ。トマトやキュウリが入ってるから食べて。荷馬車なら小一時間で着くから。寝てても良いよ。」
慣れない山道と野宿でヘトヘトだったせいか、荷台で寄りかかってすぐに意識が遠のいた。
「着いたよ。」
ゆっくりと目を開けると、あの人の良さそうな顔が覗き込んでいた。のっそりと荷馬車から降りると、
「まだ診療所の列は出来たばかりのようだよ。この調子なら午前中には診てもらえそうだよ。良かったね。きみ、とっても暗い顔をしているけど、きっと大丈夫だよ。きみの問題もきっと解決する日が来る。僕もね、生き直したくちなんだ。今も贅沢は出来ないけど、それでもは幸せだと感じている。きみに何があるのかわからないけど、いつかきっと大丈夫だと思える日が来るはずだよ。」
と微笑んだ。
「ありがとう、本当に。それに、ここまで連れてきてくれたこともありがとう。お礼に何かしたいけど、生憎・・」
「いいよ。気にしないで。君がいてもいなくてもここを通る事になっていたんだから。それじゃお大事に。」
彼の姿が小さくなるまで見送った。
診療所の紹介状のない人の列に並んだ頃には辺りは明るくなってきていた。そのうちに人が沢山集まりだし、テントが張られ、いよいよ診療が始まった。
並んでいた列は少しずつ動いていて、診療用に張られたテントからは晴れ晴れとした表情をした人が出てくる。列には様々な人が並び、自分の番を心待ちにしている。
この肩や足が治れば、また昔のように一人前の鍛冶職人として働き、記憶を失っても、手足が不自由になっても見捨てずに支えてくれたエディットや、出て行った父母の代わりに育ててくれた祖父へ恩返しが出来るだろう。そのためにも、必ずこの手足を治さなければ。
「次の方どうぞ。」
呼ばれて、一つ前に立っていた老女がテントへ入っていった。とうとう、次が自分の番だ。期待や不安で自分の鼓動が聞こえてくるようだった。
∴∵
「エヴァリスト、ご飯出来たから子供たちにご飯食べさせてしまって。」
エディットの声に、過去を一旦胸にしまい込む。
「わかったよ。エディットも先に食べたら?子供たちには俺一人でも平気だから。俺はじいさんが帰ってから一緒に食べるよ。ジョセフはもう上手に食べられるよな。」
ジョセフは ‘出来る’ と元気に返事をする。
「そう?それじゃ、そうさせてもらおうかな。」
仕事から帰るとエディットは笑顔で出迎えてくれる。エディットの料理を美味しそうに食べるジョセフとダニエル。祖父も手伝いとは言え、好きな鍛冶の仕事を続けている。山奥の小屋とは比べものにならないほどの家に住んでいる。『これが・・・今のこれが、僕の幸せなのだ』と心で唱える。
∴∵
目覚めたとき、真っ白な天井だけが目に入った。どこか分からず、戸惑いながら起き上がると、くすんだ薄い赤紫色の服を着た女性が笑顔でこちらを見ていた。
「大丈夫ですか?どこか違和感などありませんか?」
今の状態を違和感なんて言葉では表しきれない。僕は何故かその事を悟られてはいけない気がして何事もなかった風で一つ頷いた。
「簡易診療所でルイ大尊者様の治療をお受けになったことは覚えていらっしゃいますか?」
それにも、一つ頷く。
「あれから一週間が経っております。治療をお受けになって、突然お倒れになりました。なかなかお目覚めにならず、お近くにご家族もいらっしゃらないご様子でしたので、悩んだ末に王都へお連れ致しました。ここは王宮内にある神殿の一室でございます。」
ノックの音がして、彼女が返事をすると、男性が一人静かに入って来て、入れ替わりで彼女は部屋を出て行った。彼は、水差しからコップに水を注ぐと、僕に寄越した。
「私はジョルジュと言います。神殿で仕える神官をまとめる立場にある者です。お名前を伺っても?」
僕が黙っていると、彼は子供を宥めるように笑った。
「君にはこの言葉が通じていますね。この言葉は隣国エシタリシテソージャの言葉です。」
ジョルジュと名乗った父親と同じくらいの年の男性は、柔和な表情を保ったまま間近にあるスツールに腰を下ろした。
「あなたはずっとうわ言を言っていました。」
「・・・はい。」
「ご家族は?王都にいらっしゃいますか?」
「いいえ。」
「簡易診療所のあったフィーカの町にあなたを探す人がいないか騎士団が注視していますが、未だに現れません。あなたは、ご家族に簡易診療所へ行く事を伝えていましたか?」
「いいえ。」
「あなたの事情を私だけにはお話し頂けませんか?何かお力になれる事があるのではないかと思います。」
僕が黙っていると、彼は静かに立ち上がった。
「一週間も飲まず食わずだったのです。直ぐに出立できるような体力は残っていないと思います。フィーカまでは四百㎞弱あります。馬車で帰るにもお金が必要ですし、歩いて帰るなら体力が必要です。あなたは暫くここで養生された方がいいでしょう。体に優しい食べ物をお持ちします。しばらくお待ち下さい。」
そう言って、彼は部屋を出て行った。
∴∵
「パパ。全部食べたよ。」
ダニエルの方に向けていた視線をジョセフに移すと、皿に盛ってあった野菜の煮込みがなくなっていた。
「偉いな、ジョセフ。」
そこへユーグが帰って来た。
「お仕事お疲れ様でした。」
エディットの明るい声に、ユーグはひとつ頷いた。
「すぐご飯用意しますね。」
「それくらい、自分で出来るさ。エヴァリストは?もう食ったのか?」
「いいや、この子たちを先にと思って。」
「ならば、お前の分も用意してしまって良いか?」
「あぁ。頼むよ。」
∴∵
更に一週間が過ぎた。その間、神官長のジョルジュ様は毎日僕の部屋へ来た。自分の周りで起きたちょっと困ったことなどを十分弱話して帰るだけだった。
「まぁ、何度も話しているけれど、ルイ尊者様やフィリップ尊者様はとにかく王妃陛下に似ていらっしゃって・・・回りが止めるのも聞かず、魔獣討伐へ向ってしまうんだ。本当に困ったものだよ。若い頃の王妃陛下も、侍女や侍従や護衛騎士を撒いて討伐へ出向いてしまったり・・・」
「女性が、しかも王妃陛下が魔獣を討伐するのですか?ご自分で?」
「魔獣の討伐専門組織の国軍にも騎士団にも女性は所属しているからね。王妃陛下がこの国に渡ってこられてから、その姿に憧れて国軍にも騎士団にも女性が増えたんだよ。」
「この国の女性は、本当に活動的な方が多いのですね。私の妻もそうです。記憶を失い、体の自由も利かない私の代わりに家族のために働いてくれていました。…私の家族は、ドンカーの森の奥、山の上のヴィッフェアボウリと言う村にいます。そこの鍛冶職人のユーグが祖父で、妻のエディットと息子のジョセフとダニエルがいます。しかし、私は、ユーグさんの孫ではありません。この国の民ですらありません。」
エディットの話しによれば、この町の道具街の一角に祖父ユーグの営む店があったようだ。ユーグは大変腕の良い鍛冶職人で、彼の野鍛冶屋はとても繁盛していたと聞いた。しかし、息子のギョームは自堕落な生活を送っていて、その息子が作った膨大な借金のせいで彼の妻は行方をくらまし、店は手放さなくてはならなくなった。更にギョームの起こしたもめ事のせいで住み慣れた町にも住みづらくなって山奥に住み替えたと聞いた。
ユーグやエディットが町の診療所へ自分を行かせたくなかったのもその事が関わっているのかもしれないと思い、少しうつむき加減で歩いていた。まだ人の顔もハッキリと見えない薄暗さの残る時間帯にも関わらず、荷馬車などがあちこちに向って走っている。
「ちょっと、きみ。」
明らかに自分にかけられた声は、知人なのかそれとも自分の父の知人なのか今の自分には判断できない。聞こえなかったふりをして進もうと思ったとき、肩に手が置かれた。
「足、不自由なの?今日の診療所へ行く人?その足じゃ歩くのも辛いでしょ?俺は診療所の先の市場に野菜を卸しに行く所だから荷台で良ければ乗って行きなよ。」
「いいえ、大丈夫です。」
「その足じゃ、着いた頃には長蛇の列だよ。それに、俺はどうせその横を通るんだから、ついでだ。」
考え込んでいると、青年は人の良さそうな笑顔を向ける。
「さぁ、乗りな。」
「ありがとう。」
「いいよ。俺も記憶のないくらい小さな頃に顔の傷を治してもらったんだ。きみの怪我も治ると良いね。もし、お腹が空いているなら積んだ野菜食べて良いよ。うちの自慢。御料牧場と同じ土壌で育った野菜だから栄養満点で美味しいよ。トマトやキュウリが入ってるから食べて。荷馬車なら小一時間で着くから。寝てても良いよ。」
慣れない山道と野宿でヘトヘトだったせいか、荷台で寄りかかってすぐに意識が遠のいた。
「着いたよ。」
ゆっくりと目を開けると、あの人の良さそうな顔が覗き込んでいた。のっそりと荷馬車から降りると、
「まだ診療所の列は出来たばかりのようだよ。この調子なら午前中には診てもらえそうだよ。良かったね。きみ、とっても暗い顔をしているけど、きっと大丈夫だよ。きみの問題もきっと解決する日が来る。僕もね、生き直したくちなんだ。今も贅沢は出来ないけど、それでもは幸せだと感じている。きみに何があるのかわからないけど、いつかきっと大丈夫だと思える日が来るはずだよ。」
と微笑んだ。
「ありがとう、本当に。それに、ここまで連れてきてくれたこともありがとう。お礼に何かしたいけど、生憎・・」
「いいよ。気にしないで。君がいてもいなくてもここを通る事になっていたんだから。それじゃお大事に。」
彼の姿が小さくなるまで見送った。
診療所の紹介状のない人の列に並んだ頃には辺りは明るくなってきていた。そのうちに人が沢山集まりだし、テントが張られ、いよいよ診療が始まった。
並んでいた列は少しずつ動いていて、診療用に張られたテントからは晴れ晴れとした表情をした人が出てくる。列には様々な人が並び、自分の番を心待ちにしている。
この肩や足が治れば、また昔のように一人前の鍛冶職人として働き、記憶を失っても、手足が不自由になっても見捨てずに支えてくれたエディットや、出て行った父母の代わりに育ててくれた祖父へ恩返しが出来るだろう。そのためにも、必ずこの手足を治さなければ。
「次の方どうぞ。」
呼ばれて、一つ前に立っていた老女がテントへ入っていった。とうとう、次が自分の番だ。期待や不安で自分の鼓動が聞こえてくるようだった。
∴∵
「エヴァリスト、ご飯出来たから子供たちにご飯食べさせてしまって。」
エディットの声に、過去を一旦胸にしまい込む。
「わかったよ。エディットも先に食べたら?子供たちには俺一人でも平気だから。俺はじいさんが帰ってから一緒に食べるよ。ジョセフはもう上手に食べられるよな。」
ジョセフは ‘出来る’ と元気に返事をする。
「そう?それじゃ、そうさせてもらおうかな。」
仕事から帰るとエディットは笑顔で出迎えてくれる。エディットの料理を美味しそうに食べるジョセフとダニエル。祖父も手伝いとは言え、好きな鍛冶の仕事を続けている。山奥の小屋とは比べものにならないほどの家に住んでいる。『これが・・・今のこれが、僕の幸せなのだ』と心で唱える。
∴∵
目覚めたとき、真っ白な天井だけが目に入った。どこか分からず、戸惑いながら起き上がると、くすんだ薄い赤紫色の服を着た女性が笑顔でこちらを見ていた。
「大丈夫ですか?どこか違和感などありませんか?」
今の状態を違和感なんて言葉では表しきれない。僕は何故かその事を悟られてはいけない気がして何事もなかった風で一つ頷いた。
「簡易診療所でルイ大尊者様の治療をお受けになったことは覚えていらっしゃいますか?」
それにも、一つ頷く。
「あれから一週間が経っております。治療をお受けになって、突然お倒れになりました。なかなかお目覚めにならず、お近くにご家族もいらっしゃらないご様子でしたので、悩んだ末に王都へお連れ致しました。ここは王宮内にある神殿の一室でございます。」
ノックの音がして、彼女が返事をすると、男性が一人静かに入って来て、入れ替わりで彼女は部屋を出て行った。彼は、水差しからコップに水を注ぐと、僕に寄越した。
「私はジョルジュと言います。神殿で仕える神官をまとめる立場にある者です。お名前を伺っても?」
僕が黙っていると、彼は子供を宥めるように笑った。
「君にはこの言葉が通じていますね。この言葉は隣国エシタリシテソージャの言葉です。」
ジョルジュと名乗った父親と同じくらいの年の男性は、柔和な表情を保ったまま間近にあるスツールに腰を下ろした。
「あなたはずっとうわ言を言っていました。」
「・・・はい。」
「ご家族は?王都にいらっしゃいますか?」
「いいえ。」
「簡易診療所のあったフィーカの町にあなたを探す人がいないか騎士団が注視していますが、未だに現れません。あなたは、ご家族に簡易診療所へ行く事を伝えていましたか?」
「いいえ。」
「あなたの事情を私だけにはお話し頂けませんか?何かお力になれる事があるのではないかと思います。」
僕が黙っていると、彼は静かに立ち上がった。
「一週間も飲まず食わずだったのです。直ぐに出立できるような体力は残っていないと思います。フィーカまでは四百㎞弱あります。馬車で帰るにもお金が必要ですし、歩いて帰るなら体力が必要です。あなたは暫くここで養生された方がいいでしょう。体に優しい食べ物をお持ちします。しばらくお待ち下さい。」
そう言って、彼は部屋を出て行った。
∴∵
「パパ。全部食べたよ。」
ダニエルの方に向けていた視線をジョセフに移すと、皿に盛ってあった野菜の煮込みがなくなっていた。
「偉いな、ジョセフ。」
そこへユーグが帰って来た。
「お仕事お疲れ様でした。」
エディットの明るい声に、ユーグはひとつ頷いた。
「すぐご飯用意しますね。」
「それくらい、自分で出来るさ。エヴァリストは?もう食ったのか?」
「いいや、この子たちを先にと思って。」
「ならば、お前の分も用意してしまって良いか?」
「あぁ。頼むよ。」
∴∵
更に一週間が過ぎた。その間、神官長のジョルジュ様は毎日僕の部屋へ来た。自分の周りで起きたちょっと困ったことなどを十分弱話して帰るだけだった。
「まぁ、何度も話しているけれど、ルイ尊者様やフィリップ尊者様はとにかく王妃陛下に似ていらっしゃって・・・回りが止めるのも聞かず、魔獣討伐へ向ってしまうんだ。本当に困ったものだよ。若い頃の王妃陛下も、侍女や侍従や護衛騎士を撒いて討伐へ出向いてしまったり・・・」
「女性が、しかも王妃陛下が魔獣を討伐するのですか?ご自分で?」
「魔獣の討伐専門組織の国軍にも騎士団にも女性は所属しているからね。王妃陛下がこの国に渡ってこられてから、その姿に憧れて国軍にも騎士団にも女性が増えたんだよ。」
「この国の女性は、本当に活動的な方が多いのですね。私の妻もそうです。記憶を失い、体の自由も利かない私の代わりに家族のために働いてくれていました。…私の家族は、ドンカーの森の奥、山の上のヴィッフェアボウリと言う村にいます。そこの鍛冶職人のユーグが祖父で、妻のエディットと息子のジョセフとダニエルがいます。しかし、私は、ユーグさんの孫ではありません。この国の民ですらありません。」