薄氷の城
第 36話 漫ろ歩き
店を出た一行は、馬車との待ち合わせ時間までゆっくりと街を歩くことにした。
店を出たヴィレムが、ユリアーナの手を取ってゆっくりと歩き始めたのを見て、ルネたちは少し離れたところから二人に付いていくことにした。
二人が街を物珍しそうにしながら見ている姿にルネは心が温まる気がした。
「わりーな、わりーな、急いでんだ。どいた、どいた。」
ルネは勢いよく走ってくる男からボーを庇うようにした。
「ルネ様。私は平民です。貴族であり、国王陛下と血縁である貴方様が私を庇うようなことをなさってはなりません。この場で、守られなければならないのは、ヴィレム様とユリアーナ様、次いで貴方様です。」
ルネは少し笑った。それをボーは何が可笑しいのかと尋ねた。
「いや、悪かった。私は警護を担っている騎士だから。ここで私が守るべきなのは、両殿下とあなたですよ。あなたに何かあれば、ユリアーナ殿下は酷く悲しまれるでしょう?」
「えぇ。そうですけれど。貴賤の別は心に留めておいて下さいませ。」
「私の母は元は平民で、生家は王都の園芸店です。私の継いだラスペード伯家に養女に入って、公爵夫人となりました。公爵である父の母、つまり祖母も平民です。私の血は貴族よりも平民の血が多く入っています。私との貴賤の差が気になったら、その事を思い出して下さい。」
「王兄である公爵様のご夫人が、平民の出身なのですか?」
あまりの驚きに不躾な質問をしてしまった事に気が付いたボーは、ルネにすぐさま謝った。
「お気になさいませんように。ボー様が驚かれるのも当然です。王侯貴族と平民の結婚は我が国でも御法度です。ですから、私は父方の祖母に一度も会ったことがないし、母方の祖父母にも年に一度しか会うことは出来ません。それでも叔父夫婦である両陛下やラスペード家の家族が本当に良くしてくれるので、幼いときから寂しい思いや、劣等感などを抱くようなことなく今まできました。」
∴∵
ヴィレムがユリアーナの手をそっと握って歩き出すと、ユリアーナも少し戸惑いながら優しい力でヴィレムの手を握り返した。エパナスターシでは手を繋ぎ歩くことは品性の欠ける行いだと言われている。それどころか、上位貴族になると、街を歩き回ることも品性の欠けた行いだと後ろ指を指されることもある。
手を繋ぎ街を歩くのは、まだ世間の事情に疎い、未熟な者がする行いであって、貴族がそのような行いをするべきではないと世間の多くの人が思っている。
プリズマーティッシュでも、貴族が外を歩くとき男女が手を繋ぎ歩くことはしない。しかし、二人が貴族だと言う事を知っている者はここにはいない。その開放感がヴィレムにそのような行動をさせていた。
「ヴィム……」
ヴィレムは、恥ずかしそうに小さな声で何かを確かめるように声をかけるユリアーナを愛おしく感じながら、
「そんな小声で呼びかけなくても、三人には聞こえない。後ろを見てごらん。ルネ殿とボーも会話が弾んでいるみたいだ。私たちの会話など興味ないだろう。」
ユリアーナは、ヴィレムの目を見て優しく微笑む。
「ヴィム、あれはザクロの木ではないかしら?」
ユリアーナの指さした方向には、木の枝に赤橙色の花が付いている。
「確かに、あれはザクロの花のようだね。ユリアの好物だ。目敏いね。」
「先ほど食べたばかりで食欲旺盛のようで恥ずかしいですけれど。実だけではなく、あのオレンジのような、赤のような、赤焼け空色のお花が好きなのです。」
「では、今度城の庭にザクロの木を植えよう。私たちの居部屋から良く見える位置に。」
「お花の咲く、初夏が楽しみになります。」
「ユリアが楽しみなのは、実りの秋ではないのか?」
「ヴィムったら、少々意地悪ではありませんか?実が付くようになるには何年もかかりますから、やはり最初の楽しみは、あの鮮やかなお花でございます。」
少しすねたように見せた後、ユリアーナはふふふと楽しげに笑った。
「お城の庭師は、実を育てるのもお上手なのかしら?」
「私から丁寧に頼んでみることにしよう。愛するユリアの幸せのためだからね。」
∴∵
「ルネ様。」
「はい。何でしょうか?」
「この様なお時間を下さり、ありがとうございます。」
「ボー様が楽しんで下さって、嬉しく思います。どこか、雑貨店などにも寄りましょうか?お土産など…」
「いいえ。私は良いのです。ただ、ユリアーナ様があのように幸せそうにしていらっしゃるのが、本当に嬉しくて。ユリアーナ様の生家であるフェルバーン家にお世話になったのが私が八歳の時。それから見習いを経てユリアーナ様の専属メイドに召し上げて頂いたのが私が十六歳でユリアーナ様が八歳の時でした。その頃からお嬢様は大変聡明で、私共の手を煩わせることなど一度もなく…あまりにも手がかからないので返って心配になってしまうほどでした。」
ヴィレムと何やら楽しそうに話しているユリアーナの姿を見ながら、ボーは微笑む。ルネは、自分の母が王妃陛下を警護しているときに見せる微笑みによく似ていると思った。
「何かお辛いことがあっても、それを人には一切見せずにじっと辛抱なさるお方です。ここまでに色々とお心を痛める時もあったのだと思いますが、私には何も出来ず、ただお側にいるだけでした。それでも今ああして幸せそうに笑っていらっしゃるのならば、本当に嬉しく思うのです。お二人が公爵家として装わずにいられるお姿を拝見できた事、そんな時間を作って頂けた事にルネ様には心から感謝申し上げます。」
「それは、私の力ではありません。ヴィレム殿下がユリアーナ殿下の笑顔を作り出しているのだと思います。それに、ボー様の献身的な支えがあってこその今なのだと思います。私の母は、今も王妃陛下の侍女兼護衛としてお側におります。母が伯爵家へ養子に入ったのも結婚して王妃となられるリオ陛下の侍女を続ける為でした。王妃陛下は度々、あの時に伯爵家への養子の話しを受け入れてくれなかったら陛下と結婚していなかった。と言っています。ご令嬢にとってはそのくらい専属メイドは重要な存在なのだと思います。」
ルネがあまりにも人懐っこい微笑みを見せるので、ボーも釣られて微笑み返してしまった。
店を出たヴィレムが、ユリアーナの手を取ってゆっくりと歩き始めたのを見て、ルネたちは少し離れたところから二人に付いていくことにした。
二人が街を物珍しそうにしながら見ている姿にルネは心が温まる気がした。
「わりーな、わりーな、急いでんだ。どいた、どいた。」
ルネは勢いよく走ってくる男からボーを庇うようにした。
「ルネ様。私は平民です。貴族であり、国王陛下と血縁である貴方様が私を庇うようなことをなさってはなりません。この場で、守られなければならないのは、ヴィレム様とユリアーナ様、次いで貴方様です。」
ルネは少し笑った。それをボーは何が可笑しいのかと尋ねた。
「いや、悪かった。私は警護を担っている騎士だから。ここで私が守るべきなのは、両殿下とあなたですよ。あなたに何かあれば、ユリアーナ殿下は酷く悲しまれるでしょう?」
「えぇ。そうですけれど。貴賤の別は心に留めておいて下さいませ。」
「私の母は元は平民で、生家は王都の園芸店です。私の継いだラスペード伯家に養女に入って、公爵夫人となりました。公爵である父の母、つまり祖母も平民です。私の血は貴族よりも平民の血が多く入っています。私との貴賤の差が気になったら、その事を思い出して下さい。」
「王兄である公爵様のご夫人が、平民の出身なのですか?」
あまりの驚きに不躾な質問をしてしまった事に気が付いたボーは、ルネにすぐさま謝った。
「お気になさいませんように。ボー様が驚かれるのも当然です。王侯貴族と平民の結婚は我が国でも御法度です。ですから、私は父方の祖母に一度も会ったことがないし、母方の祖父母にも年に一度しか会うことは出来ません。それでも叔父夫婦である両陛下やラスペード家の家族が本当に良くしてくれるので、幼いときから寂しい思いや、劣等感などを抱くようなことなく今まできました。」
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ヴィレムがユリアーナの手をそっと握って歩き出すと、ユリアーナも少し戸惑いながら優しい力でヴィレムの手を握り返した。エパナスターシでは手を繋ぎ歩くことは品性の欠ける行いだと言われている。それどころか、上位貴族になると、街を歩き回ることも品性の欠けた行いだと後ろ指を指されることもある。
手を繋ぎ街を歩くのは、まだ世間の事情に疎い、未熟な者がする行いであって、貴族がそのような行いをするべきではないと世間の多くの人が思っている。
プリズマーティッシュでも、貴族が外を歩くとき男女が手を繋ぎ歩くことはしない。しかし、二人が貴族だと言う事を知っている者はここにはいない。その開放感がヴィレムにそのような行動をさせていた。
「ヴィム……」
ヴィレムは、恥ずかしそうに小さな声で何かを確かめるように声をかけるユリアーナを愛おしく感じながら、
「そんな小声で呼びかけなくても、三人には聞こえない。後ろを見てごらん。ルネ殿とボーも会話が弾んでいるみたいだ。私たちの会話など興味ないだろう。」
ユリアーナは、ヴィレムの目を見て優しく微笑む。
「ヴィム、あれはザクロの木ではないかしら?」
ユリアーナの指さした方向には、木の枝に赤橙色の花が付いている。
「確かに、あれはザクロの花のようだね。ユリアの好物だ。目敏いね。」
「先ほど食べたばかりで食欲旺盛のようで恥ずかしいですけれど。実だけではなく、あのオレンジのような、赤のような、赤焼け空色のお花が好きなのです。」
「では、今度城の庭にザクロの木を植えよう。私たちの居部屋から良く見える位置に。」
「お花の咲く、初夏が楽しみになります。」
「ユリアが楽しみなのは、実りの秋ではないのか?」
「ヴィムったら、少々意地悪ではありませんか?実が付くようになるには何年もかかりますから、やはり最初の楽しみは、あの鮮やかなお花でございます。」
少しすねたように見せた後、ユリアーナはふふふと楽しげに笑った。
「お城の庭師は、実を育てるのもお上手なのかしら?」
「私から丁寧に頼んでみることにしよう。愛するユリアの幸せのためだからね。」
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「ルネ様。」
「はい。何でしょうか?」
「この様なお時間を下さり、ありがとうございます。」
「ボー様が楽しんで下さって、嬉しく思います。どこか、雑貨店などにも寄りましょうか?お土産など…」
「いいえ。私は良いのです。ただ、ユリアーナ様があのように幸せそうにしていらっしゃるのが、本当に嬉しくて。ユリアーナ様の生家であるフェルバーン家にお世話になったのが私が八歳の時。それから見習いを経てユリアーナ様の専属メイドに召し上げて頂いたのが私が十六歳でユリアーナ様が八歳の時でした。その頃からお嬢様は大変聡明で、私共の手を煩わせることなど一度もなく…あまりにも手がかからないので返って心配になってしまうほどでした。」
ヴィレムと何やら楽しそうに話しているユリアーナの姿を見ながら、ボーは微笑む。ルネは、自分の母が王妃陛下を警護しているときに見せる微笑みによく似ていると思った。
「何かお辛いことがあっても、それを人には一切見せずにじっと辛抱なさるお方です。ここまでに色々とお心を痛める時もあったのだと思いますが、私には何も出来ず、ただお側にいるだけでした。それでも今ああして幸せそうに笑っていらっしゃるのならば、本当に嬉しく思うのです。お二人が公爵家として装わずにいられるお姿を拝見できた事、そんな時間を作って頂けた事にルネ様には心から感謝申し上げます。」
「それは、私の力ではありません。ヴィレム殿下がユリアーナ殿下の笑顔を作り出しているのだと思います。それに、ボー様の献身的な支えがあってこその今なのだと思います。私の母は、今も王妃陛下の侍女兼護衛としてお側におります。母が伯爵家へ養子に入ったのも結婚して王妃となられるリオ陛下の侍女を続ける為でした。王妃陛下は度々、あの時に伯爵家への養子の話しを受け入れてくれなかったら陛下と結婚していなかった。と言っています。ご令嬢にとってはそのくらい専属メイドは重要な存在なのだと思います。」
ルネがあまりにも人懐っこい微笑みを見せるので、ボーも釣られて微笑み返してしまった。