薄氷の城

第 4 話 母として

「はぁ。」

 アニカは大きなため息を吐いた。向かいにはクリストッフェルが座っている。
 アニカの部屋には、広い部屋に不釣り合いなまでに飾り気のない小ぶりなワードローブとベッド、それに小さなテーブルセットがあるだけだった。クリストッフェルが何度か模様替えを勧めたが、アニカは頑なにそれを断わっていた。

「アニカ様、」

 クリストッフェルはアニカの眉間にしわが寄るのを見た。
 これが、アニカが傷ついた時の癖だと気が付いたのは数年前だった。孤立無援の城の中で、涙を見せることの出来ないアニカは、不機嫌を装うことで自分の気持ちさえも誤魔化しているようだった。

「父上が言うにはフェルバーン家からは次女のアンナ嬢はどうかと打診を頂いているそうです。私としても、フェルバーン伯が舅になって下さるなら、心強く思います。これも全て、アニカ様がお心砕いて下さったおかげだと・・」
「あの家の第一子であるユリアーナではないと意味がないのよ。」

 急に強まったアニカの語気に、クリストッフェルは、自身の侍従に合図をして部屋から出した。

「なぜ、ユリアーナ嬢なのでしょう?フェルバーンの後ろ盾には変わりありません。あちらのご一家は家族仲も良いと聞きますし。」
「ユリアーナは、フェルバーン家の第一子だし、何よりヴィレムがユリアーナを妃にしたいと願っていたからよ。」
「ヴィレム兄上がですか?」
「見ていて分からなかった?」

 アニカは、夜会や茶会に出席はしないものの、クリストッフェルの成長した姿を見たいとマリウッツに願って、出席者から見えないところから見学をしている。
 最初は本当にクリストッフェルの夜会デビューを一目見たかっただけだが、意外にもホールの上段は人々の話し声や表情がよく分かる。今は、厳しい城暮らしの中で必要な情報を手に入れるための手段だった。

「はい。兄上はどのご令嬢に対しても優しく丁寧に接しておられますから。」
「隠すのが上手いだけよ。」

 思い出すのは三年前の茶会の出来事だ。ヴィレムの王立学園卒業を控えた初夏に祝いの名目でごく限定した人物を招待して開かれた。これがヴィレムの妃探しの茶会だと言う事は言うまでもなかった。この茶会にそれほど興味はなかったが、クリストッフェルも参加すると聞いて、アニカも二階のテラスから見学させてもらうことにした。
 茶会は淡い青紫色のアガパンサスが見頃になった庭で行われた。
 ヴィレムの正妃候補として私が耳にした事がある令嬢は二人だった。
 一人目はフェルカイク辺境伯家令嬢、エリーサベト当時十六歳。現当主は国家騎士団の団長をしている。ゼフェン・プリズマーティッシュ・クルウレンと山脈を挟んで隣接する国防に於いて重要な領地を持っている。
 二人目はマッティス辺境伯家。現当主は外務長官をしていて、こちらも北を大国ゼフェン・プリズマーティッシュ・クルウレン、南を王都と隣接した国防上の要となっている領地を持っている。そこの令嬢アルベルティナは当時十七歳。しかし、マッティス家は第一王子であるヘンドリックの妃選びの時、家門の子爵家から養女を取って、正妃にしている。
 そう言う点で、第二王子ヴィレムの妃にはフェルカイク家の令嬢が選ばれるだろうと思われていた。
 あの日、確かにヴィレムは細やかにエリーサベト嬢に話しかけていたように思う。しかし、私が見て取ったのはヴィレムが向ける視線だった。
 子息同士の談笑の時や、飲み物を取るほんの一瞬にヴィレムはユリアーナを探すような素振りがあった。他の子息が彼女を話題に出そうとすると、話題を変えたりもしていた。そして何より、既に結婚出来る年になっているエリーサベトと未だ婚約すらしていない。
 ヴィレムとしてみれば、私や他の家に邪魔されないように自分に芽生えた想いをひた隠しにして、彼女の結婚出来る年まで待っていたのだろうが、それが裏目に出て、横からかっ攫われた形になった。
 結婚相手がヴィレム以外ならまぁ良いかと、アニカは、取り敢えず納得する。

「フェルバーン家が次女との縁談を進めてくれるのであれば、それも良いのじゃない?」
「はい。ただ、アンナ嬢はまだ十五歳ですから、正式に話が進む迄には時間が必要になります。」
「そうなのね。でも、よかったわね。」

 アニカは、クリストッフェルが出て行った部屋で、一人虚空を眺める。
 アニカが初めて城のこの部屋に通されたとき、まだこの部屋にはそれなりに飾られていた。アニカが今まで使ったことのないような調度に、一生買うことがないような装飾の凝った花瓶、それに飾られた香りの良い花。
 子を身籠もるまで、自分の恋の相手がこの国の王子だなんて知らなかった。ただ、ちょっとした所作や話し方で貴族の子息なんだろう事は分かっていた。家族のことや、仕事のことも一切会話に出さないから貴族の中でも高位なんだろうとまでは思っていたが、まさか王子だとは思いも寄らなかった。
 アニカがマウリッツの本名と身分を聞いたのはもうお腹が十分に大きくなってからだった。そして、王都から出て、海沿いの屋敷に連れて行かれそこで出産をした。いまでも、初めてクリストッフェルを抱いた日のことは覚えている。
 アニカが疲労から半分気を失うように眠りにつき、次に目を覚ますともうそこに我が子はなく、二度と胸に抱くこともなかった。
 側妃どころか、愛妾としても認めてもらえず、侍女としての仕事をしようとしても、仕事を与えてもらえることもなく、そのくせ役立たずと後ろ指を指され、唯一の頼みの瀬であるマウリッツも通わなくなり、この調度は侍女には価値が分からず無駄になると言われ簡素な物に取り替えられてもなお、この場に留まっているのはただクリストッフェルを側で見ていたいからだった。それが、例え母としてではなくても。


∴∵


 デビュタントのエスコート役は舞踏会が終わった後、デビュタントを家へ招き、祝うのも習わしになっていた。コンスタンティンは、この日のために着飾ったユリアーナをエイクマン家に連れてきた。
 エイクマン家のタウンハウスはイペロホス城から馬車で三十分程の距離にあり、敷地はフェルバーン家ほど広くはないが、よく整えられた庭には鮮やかな色の花が咲いている。
 教育の行き届いた使用人が二人の帰りを迎える。長い廊下を歩き、通されたのはダイニングルームだった。草原の様な深い黄緑色の落ち着いた雰囲気の絨毯がこの家に馴染んでいる。

「お帰りなさい。コンスタンティン。ようこそユリアーナ。旦那様とは舞踏会で会わなかった?」
「少し、挨拶したけど。」
「そう、もうすぐお帰りになると思うから。さぁ、二人とも席へ着いて。」

 コンスタンティンの母ルイーセは、明るく話す。

「おばさま。この度は我が儘を受け入れて下さり感謝を申し上げます。」
「何を言っているの。我が儘だなんて。アンナとの事は残念だけれど、コンスタンティンがより幸せになれるのなら、私には嬉しいことなの。うちは一人息子でしょう?あなたが娘になってくれる日が本当に楽しみだわ。」

 この国では、未成年のうちは許嫁である女性の家へ男性側が通うが、成年になったら女性側が男性側の家へ通い家に慣れるようにすることが多い。本来ならば、デビューの後この家へ来て、この家族として迎え入れられるのはアンナだったはずだ。

「コンスタンティン、あなたには跡継ぎなのだからと厳しくしつけをしてきたし、これからも様々な試練があるのだと思うけれどこんな素敵な女性があなたと生きていきたいと言ってくれたのだから、今まで以上に頑張らないといけないわね。ユリアーナ、これからコンスタンティンと二人で、この家を支えて頂戴ね。」

 ルイーセは、ユリアーナの手を優しく包み込んだ。そこへメイドがやって来た。
 
「奥様、旦那様がお戻りです。」
「そう、ありがとう。では皆で旦那様を迎えましょうか。ユリアーナも良いかしら?」
「はい。もちろんです。」
「こんなに素敵に着飾ったユリアーナに出迎えてもらえるなんて、旦那様も幸せ者ね。」

 
∴∵


 ヴィレムは、城内の巨大な扉の前で派手にため息を吐いた。護衛の騎士たちの声かけにアンドレーアの侍女スザンネが扉を開け、ヴィレムを通す。

「母上お呼びでしょうか?」

 王太子妃アンドレーアの自室は、大型家具に調度品、ファブリックに至るまで一目で高級品と分かるもので飾られている。これは、アンドレーアの生家である、三大辺境伯家と言われる名門家の中でも群を抜いた資金力があるブラウェルス家が整えたものだった。
 ブラウェルス領で作られた高級織物で作られたソファーに腰掛けているアンドレーアは息子に対してとは思えぬほどに冷たい視線をヴィレムに送る。
 
「貴方がユリアーナに好意を持っていたことは知っていたけれど、遅かったのよ。殿下には、私からもユリアーナをヴィレムの妃にと話しをしていたけれど、殿下はクリストッフェルと結婚させたかったみたい。貴方も、ユリアーナがクリストッフェルの妃になるよりはこの方が良いでしょう?もう、ユリアーナのことは忘れなさい。良いわね?これ以上あなたの結婚を待つことは出来ないのはわかるわね?フェルカイク家のエリーサベトとの婚約を進めます。話しは以上よ。出て行きなさい。」

 ヴィレムは、短い返事だけをして部屋を出て行った。
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