薄氷の城
第55話 別れ
六月十七日、式典参加のためにプリズマーティッシュに訪問していたエシタリシテソージャとゲウェーニッチの使節団は既にプリズマーティッシュを発っていた。
午後になり、エパナスターシの一行も、プリズマーティッシュの国王夫妻と別れの挨拶を交わし、いよいよ出発の時間になった。
離宮の馬車回しには、老齢のけれども体格ががっしりとした質素な服装の男性が小さな男の子たちと別れを惜しんでいた。
「ユーグさんやはり、一緒に来てはいただけませんか?」
コンスタンティンの言葉に静かに首を振る。立派な馬車が並ぶ中を、使用人たちは忙しそうに荷馬車に荷物を積んだりしている。
「私は、鍛冶仕事が好きなのです。」
「…そうですか。分かりました。それでは、どうか末永くご健康でいらして下さい。必ず、便りを・・」
「私のことは、忘れて下さい。」
「何を・・」
「生きていれば多くの人とすれ違って生きていきます。その人々のことなど普通は気にも留めないでしょう。あっ、エパナスターシの方々が呼んでいますよ。私は、そろそろ失礼させて頂きます。道中お気を付けて。末永く健やかにお過ごし下さい。」
ユーグは、プリズマーティッシュの平民が貴族に対して行なう最敬礼をして去って行った。
∴∵
「宮殿での滞在はたったの三日間でしたけれど、色々なことがございましたね、旦那様。」
「あぁ。驚くことばかりだった。」
「コンスタンティンとのお時間を作って下さり、ありがとうございました。」
「元婚約者としてはもちろんだが、幼なじみとしても彼の消息は気掛かりだっただろう?」
「はい。弟や妹からエイクマン家の様子を聞いていたのもあり、彼がいつか無事に帰ってきてくれるようにと願っていました。」
「ヴォルテルが言っていた。この六年、レネもコンスタンティンは無事で帰って来るという希望と、長い間消息の一つも得られない絶望とが入り交じっているように見えたと。」
ユリアーナは、動き始めた馬車の中から外を眺めている。六年間と言う時間は、現在から振り返ってみれば、あっという間のような気もするが、重ねた日々は確実に存在している。本当の事を言えば、彼が無事で帰って来るだなんて奇跡的なこと起らないだろうと思っていた。六年は希望を持ち続けるには長くて厳しい時間だった。
「何はともあれ、コンスタンティンは無事でいてくれた。」
「はい。」
本当に、私にとってもこの三日間は忘れられない日々になるのだろう。自分が神話時代の女神の生まれ変わりだなんて話しも俄には、信じられないけれど、あの王妃陛下を相手にしているとそれもあり得るかもしれないと思わせるところがある。
∴∵
プリズマーティッシュの配慮で上等な馬車が用意され、その馬車にコンスタンティン、エディット、ジョセフ、ダニエルが乗り込んだ。普段使っている辻馬車とは比べものにはならないほどの立派な馬車に、乗り込んだジョセフとダニエルはソワソワとしていた。
「これからおとうさんのおうちにかえるの?」
ジョセフは、広い馬車がよっぽど嬉しかったのか、ニコニコしながらコンスタンティンに尋ねた。
「そうだよ。」
「これから、ダニエルもぼくもいっぱいおべんきょうしなくちゃいけないんでしょ?」
「そうだね。これからは、覚えなくてはいけないことが沢山あるだろうね。でも、父さんもそれは同じだから。父さんと一緒に沢山勉強しよう。」
二人の会話を、エディットはにこやかに聞いていた。
「エディット。生まれて育ったこの国を本当に出てしまって構わなかったか?」
「エヴァ・・あなたと一緒にいられるのならどこでも、私は大丈夫。」
「ドンカーの森を通るようだよ。少し止まってもらって散策でもしようか?」
「今は、過去を振り返らずにいたいの。前だけ向いていたい。」
「そうか。わかった。ところで、アンヌは、本当に我が家の下働きでも良いと言ったのかい?」
「うん。下働きとしてでも良いから連れて行って欲しいって。」
アンヌは、王都に来てからずっとエディットと仲良くしてくれていた女性で、近所の屋敷で下働きをしていたが、魔力がないため、ただ働きのような賃金しかもらえず、仕事をずっと辞めたがっていた。プリズマーティッシュでは、一般家庭でも魔力で起動させる魔道具を置いている場合が少なくないため、例え下働きであっても多少の魔力を持っていないと仕事ができない。
「エパナスターシは、魔力がない人が殆どで、魔力の差で賃金や仕事内容が変ることはないから。下働きで良いなら、雇うことは問題ないと思うよ。ただ、エディットとの格差がどうしても出来てしまうから。友人関係だったのに大丈夫かと思って。」
「平気だと言ってた。」
「そうか。エディットの息抜きの相手としても、彼女が来てくれるのは、良かったと思う。」
コンスタンティンは、御者の隣に座っているだろう、アンヌの方を見て言った。
∴∵
ピーテルの癇癪がいつ爆発するのかとひやひやしながら、落ち着かない状態だったプリズマーティッシュの滞在が終わり、アルベルティナは心底ほっとしていた。斜向かいに座るピーテルは、執事に寄りかかって、覚醒と睡眠の狭間を漂っているようだった。
アルベルティナは、肘を付いて外の景色を見ながら考えていた。以前から、少し情緒面に不安定さのあるピーテルだったが、この二日間は異常なほどだった。外遊に行きたくないと言い出した時、断わっておけば良かったのか。しかし、それでは国家騎士団の団長を歴任してきたフェルカイク家の不名誉となってしまっただろう…とは言っても、あまりの不安定さから外遊中はほとんど騎士としての役目は果たしていない。騎士団には流感にかかったようだと説明したが、幾人かはピーテルの状態に気が付いている。
不名誉だなんて今更かとアルベルティナは軽く笑った。
∴∵
エパナスターシ一行の馬車列は、それぞれの思いを乗せて帰途に就く。
馬車は順調に進み、七月十八日にとうとうプリズマーティッシュの国境を越えて、エパナスターシに入った。
そして、使節団の一行の中にコンスタンティンがいると言う話しが、エパナスターシの貴族間に瞬く間に広がった。
午後になり、エパナスターシの一行も、プリズマーティッシュの国王夫妻と別れの挨拶を交わし、いよいよ出発の時間になった。
離宮の馬車回しには、老齢のけれども体格ががっしりとした質素な服装の男性が小さな男の子たちと別れを惜しんでいた。
「ユーグさんやはり、一緒に来てはいただけませんか?」
コンスタンティンの言葉に静かに首を振る。立派な馬車が並ぶ中を、使用人たちは忙しそうに荷馬車に荷物を積んだりしている。
「私は、鍛冶仕事が好きなのです。」
「…そうですか。分かりました。それでは、どうか末永くご健康でいらして下さい。必ず、便りを・・」
「私のことは、忘れて下さい。」
「何を・・」
「生きていれば多くの人とすれ違って生きていきます。その人々のことなど普通は気にも留めないでしょう。あっ、エパナスターシの方々が呼んでいますよ。私は、そろそろ失礼させて頂きます。道中お気を付けて。末永く健やかにお過ごし下さい。」
ユーグは、プリズマーティッシュの平民が貴族に対して行なう最敬礼をして去って行った。
∴∵
「宮殿での滞在はたったの三日間でしたけれど、色々なことがございましたね、旦那様。」
「あぁ。驚くことばかりだった。」
「コンスタンティンとのお時間を作って下さり、ありがとうございました。」
「元婚約者としてはもちろんだが、幼なじみとしても彼の消息は気掛かりだっただろう?」
「はい。弟や妹からエイクマン家の様子を聞いていたのもあり、彼がいつか無事に帰ってきてくれるようにと願っていました。」
「ヴォルテルが言っていた。この六年、レネもコンスタンティンは無事で帰って来るという希望と、長い間消息の一つも得られない絶望とが入り交じっているように見えたと。」
ユリアーナは、動き始めた馬車の中から外を眺めている。六年間と言う時間は、現在から振り返ってみれば、あっという間のような気もするが、重ねた日々は確実に存在している。本当の事を言えば、彼が無事で帰って来るだなんて奇跡的なこと起らないだろうと思っていた。六年は希望を持ち続けるには長くて厳しい時間だった。
「何はともあれ、コンスタンティンは無事でいてくれた。」
「はい。」
本当に、私にとってもこの三日間は忘れられない日々になるのだろう。自分が神話時代の女神の生まれ変わりだなんて話しも俄には、信じられないけれど、あの王妃陛下を相手にしているとそれもあり得るかもしれないと思わせるところがある。
∴∵
プリズマーティッシュの配慮で上等な馬車が用意され、その馬車にコンスタンティン、エディット、ジョセフ、ダニエルが乗り込んだ。普段使っている辻馬車とは比べものにはならないほどの立派な馬車に、乗り込んだジョセフとダニエルはソワソワとしていた。
「これからおとうさんのおうちにかえるの?」
ジョセフは、広い馬車がよっぽど嬉しかったのか、ニコニコしながらコンスタンティンに尋ねた。
「そうだよ。」
「これから、ダニエルもぼくもいっぱいおべんきょうしなくちゃいけないんでしょ?」
「そうだね。これからは、覚えなくてはいけないことが沢山あるだろうね。でも、父さんもそれは同じだから。父さんと一緒に沢山勉強しよう。」
二人の会話を、エディットはにこやかに聞いていた。
「エディット。生まれて育ったこの国を本当に出てしまって構わなかったか?」
「エヴァ・・あなたと一緒にいられるのならどこでも、私は大丈夫。」
「ドンカーの森を通るようだよ。少し止まってもらって散策でもしようか?」
「今は、過去を振り返らずにいたいの。前だけ向いていたい。」
「そうか。わかった。ところで、アンヌは、本当に我が家の下働きでも良いと言ったのかい?」
「うん。下働きとしてでも良いから連れて行って欲しいって。」
アンヌは、王都に来てからずっとエディットと仲良くしてくれていた女性で、近所の屋敷で下働きをしていたが、魔力がないため、ただ働きのような賃金しかもらえず、仕事をずっと辞めたがっていた。プリズマーティッシュでは、一般家庭でも魔力で起動させる魔道具を置いている場合が少なくないため、例え下働きであっても多少の魔力を持っていないと仕事ができない。
「エパナスターシは、魔力がない人が殆どで、魔力の差で賃金や仕事内容が変ることはないから。下働きで良いなら、雇うことは問題ないと思うよ。ただ、エディットとの格差がどうしても出来てしまうから。友人関係だったのに大丈夫かと思って。」
「平気だと言ってた。」
「そうか。エディットの息抜きの相手としても、彼女が来てくれるのは、良かったと思う。」
コンスタンティンは、御者の隣に座っているだろう、アンヌの方を見て言った。
∴∵
ピーテルの癇癪がいつ爆発するのかとひやひやしながら、落ち着かない状態だったプリズマーティッシュの滞在が終わり、アルベルティナは心底ほっとしていた。斜向かいに座るピーテルは、執事に寄りかかって、覚醒と睡眠の狭間を漂っているようだった。
アルベルティナは、肘を付いて外の景色を見ながら考えていた。以前から、少し情緒面に不安定さのあるピーテルだったが、この二日間は異常なほどだった。外遊に行きたくないと言い出した時、断わっておけば良かったのか。しかし、それでは国家騎士団の団長を歴任してきたフェルカイク家の不名誉となってしまっただろう…とは言っても、あまりの不安定さから外遊中はほとんど騎士としての役目は果たしていない。騎士団には流感にかかったようだと説明したが、幾人かはピーテルの状態に気が付いている。
不名誉だなんて今更かとアルベルティナは軽く笑った。
∴∵
エパナスターシ一行の馬車列は、それぞれの思いを乗せて帰途に就く。
馬車は順調に進み、七月十八日にとうとうプリズマーティッシュの国境を越えて、エパナスターシに入った。
そして、使節団の一行の中にコンスタンティンがいると言う話しが、エパナスターシの貴族間に瞬く間に広がった。

