御曹司さま、これは溺愛契約ですか?
ふと視線を下げると、天ケ瀬百貨店の新店舗オープン祝賀パーティーが催されているフロアなのに、男が着ている服はスーツではなく上がパーカーで下がスキニーのズボン。どう考えても華やかな場にそぐわない装いなのに、体調不良で判断力が落ちていた美果は、その違和感にすら気づけなかった。
今になって気がつく自分の間抜けさに絶望する。恐怖のあまり暑さも熱さも忘れて震えていると、廊下に響き渡るほどの大きな声が美果の名前を叫んだ。
「美果!」
「!」
男に身体を掴まれたままハッと顔を上げた美果は、視線の先に焦った様子の翔がいることに気づくと、目からぼろぼろっと涙が溢れ出した。翔が助けに来てくれたと気づくと、恐怖心のすべてが一瞬で安堵に塗り替わった。
「くそっ……もう見つかったか!」
男はこんなに早く発見されると思っていなかったのか、暴言を吐き捨てるとすぐに美果の身体を解放してくれた。
もう見つかる、という表現は時間として早いかどうかの問題であって、見つかることそのものは最初から想定していたような言い回しだ。その言葉に違和感を覚えた美果は、廊下に座り込むと同時に〝翔が危ない〟と予感した。
か弱い女性を解放した人間が取る行動なんて、一つしかない。
「うらァ!」
「しょ、翔さ……!」
案の定懐から折り畳みナイフを取り出した男が、その刃先を翔に向けながら一気に駆け出す。
翔が大怪我をするかもしれないと思った美果の全身に強烈な不安が走り抜けたが、実際にはただの杞憂だった。顔に向かって伸びてきた刃物と突進をさらりとかわした翔は、そのまま足をあげると男のみぞおちに膝を突き入れた。