両片想いの恋の味。
第五話 今週水曜日、午後三時過ぎが忙しすぎたカフェ店員。
結城さん。結城ハルトさん。
名前を聞くことができた日から一週間、何度も口の中で彼の名前を転がした。無意識のうちに、きっと言葉にもしていたと思う。
彼の名前を噛みしめる度に胸のあたりがあたたかさに包まれて、幸せで、表情がゆるゆるになってしまった。まるで魔法の言葉のようだ。私をこんなに柔らかな気分にしてくれる。
今日は結城さん本人に向かって、彼の名前を呼びかけることができる水曜日だ。私は小さく鼻歌を歌いながら、結城さんがいつも座る席のテーブルを布巾で拭いて、彼を迎え入れる準備を万端にしておく。
時計の針が午後三時の三分前を指し示したとき、カラリと乾いた音を立ててドアベルが鳴り、待ち望んだ人物が入店した。

「いらっしゃいませ」

今日一番の笑顔を出せたと思う。そんな私と目を合わせてくれた結城さんは、少しだけ照れくさそうに表情を緩めると「こんにちは」と挨拶をしてくれた。

「結城さん、こんにちは。お好きな席へどうぞ」
「ありがとう。……あの、あとで少し……」
「はい」
「仕事の手が空いたときでいいから、俺のテーブルに来てほしいです。眼鏡拭きのお礼を渡したくて」
「え。あっ、本当にお礼を用意してくださったんですか!?」
「あ……め、迷惑だったら捨ててくれても」
「捨てるわけないじゃないですか!」

捨ててくれてもいいなんていう結城さんに対して、思わずちょっと強い言い方になって「やってしまった」と表情を固める。迷惑だと思ったから驚いた反応をしたわけじゃなくて、結城さんから何かをもらえるということが嬉しくて、夢じゃないのかと驚いただけで。
それをしどろもどろになりながら説明すると、私の言葉の意味をちゃんと理解してくれた結城さんは安心したように、ふっと息を吐き出して微笑む。その微笑みは、まるで胸の奥を羽で撫でられたように心地よくくすぐったくなる優しいものだった。

「じゃあ、あとでお席までうかがいますね!」
「はい。本当に手が空いたときでいいので。のんびり待ってます。あと、今日はコーヒーと、君のおすすめのケーキでお願いします」
「私、の、おすすめのケーキ……。はいっ、おすすめのケーキですね! 任せてください!」

結城さんから重大な注文をいただいてしまった! 今日の結城さんの気分的に、私がおすすめするケーキを食べたいって思ってくれたってことだよね。まさかそんな注文をしてもらえると思っていなかった。
嬉しくて万歳したいくらいテンションのまま、るんるんとカウンターの向こうにいるマスターのところに歩いて行って、伝票に注文を書き込み手渡した。
伝票に書いたメニューはブレンドコーヒーとレアチーズケーキだ。ここカフェのケーキはマスターのお兄さんが店長を務めるケーキ屋さんのものをお客さんに出している。ケーキ屋さんは商店街の中にあるから、カフェのオープン前にマスターのお兄さんがお店までケーキを配達してくれている。そのケーキの中でも、私の一番のおすすめはレアチーズケーキだった。ちょうど今日、配達されたケーキの中にレアチーズケーキがあったから結城さんに食べてもらいたい。
カウンター席のテーブルを布巾で拭きながら、いつものように結城さんを盗み見る。
鞄から文庫本と眼鏡ケースを取り出し、細身の黒縁眼鏡を右手で目元に持っていく結城さんは今日もキラキラと輝いている。目を細めて、睫毛を伏せて。モダン部分を耳に掛けた彼はブリッジを中指で押し上げながら、ちらりと私に視線を向けた。
ばちり。そんな音が聞こえていいんじゃないかってくらいしっかりと重なった私と結城さんの視線。彼がこっちを見るなんて思っていなかったから、盗み見をしていたと気づかれたことに焦って、ぴゃっと肩を小さく跳ねさせる。
結城さんは、右手中指をブリッジに触れさせる寸前で動きを止め、流し目でこちらを見たまま固まっていた。
どうしよう。変な子だって思われちゃったら、どうしよう。盗み見なんて失礼だったよね。
どう反応するのが正解かわからないまま、結城さんと視線を重ね続け唇を引き結ぶ。
私の頭の中は慌ててパニックなのに、結城さんはきょとんとした表情を崩し、顔に優しい色を滲ませてとろけそうなほど甘い笑顔を浮かべる。さらには顔の横で小さく手を振って、くれて。

「っ、ぅ」

声にならない声が私の喉から搾り出された。その場に膝から崩れ落ちなかったことを誰か褒めてほしい。
結城さん。笑った。格好良い。手を振ってくれた。手の振り方が小さくて可愛い。素敵すぎる。好き。もう大好きです。
語彙力が吹き飛んだ簡単な感情が全身を駆け巡って、顔が熱くなってくる。IQも一桁になりそうなくらいの衝撃だったけど、なんとか結城さんの行動に返事をするため右手を持ち上げる。
嬉しい。結城さんと目が合った。笑ってくれた。手を振ってくれた。もうへにゃへにゃに溶けちゃいそうなくらいゆるい笑顔を浮かべて手を振り返す。そのあとすぐにマスターに呼ばれて、私は口元をにやけさせながら、彼女が用意してくれたコーヒーとケーキをおぼんにのせた。
ふう。一度深呼吸して、気持ちを落ち着け、結城さんがいるテーブル席に近づいていく。

「お待たせしました」

結城さんはこちらを見つめていたんだけど、コーヒーとケーキをテーブルに置く私から、ふいっと一瞬目をそらして唇を引き結んだ。そのあと、ケーキを見て「これは……」と小さく呟く。

「レアチーズケーキです。私、この味が好きで……あ、もしかしてチーズケーキ苦手でしたか……?」
「ううん。ありがとう。ゆっくり味わって食べます」
「はいっ、ごゆっくりしてください」

もう無敵だ。今日のお仕事はどんなお客さんが来ようが忙しくなろうが私は無敵!
食事を終えて帰るお客さんのお会計をするためにレジ対応して、来店されるお客さんのご案内もバッチリだ。注文を聞いたり、食事をテーブルまで運んだり。テーブルの片付けもセッティングも、もりもりこなせた。
マスターが調理に忙しくて洗い物がたまっちゃったときはキッチンに入って洗い物をお手伝い。お客さんのグラスにお水が無くなったのが見えたらピッチャーを持って注ぎに向かう。
それはもう、もりもり……もりもり働いていたんだけど。今日はいつもの水曜日よりちょっとだけ忙しく、手が空く時間が取れなくてバイトが終わる一時間前からは、ほぼ半泣きになりながら仕事をしていた。
だって、だって、約束したのに結城さんのテーブルに行けなかった。いつも滞在一時間ほどで店を出る彼が、その一時間を超えてもまだ待っていてくれていたのに隙を見つけられなくて、私は心の中で大号泣していた。
とうとう結城さんが席を立ってしまって、本当に泣いちゃいそうになる。
胸の辺りを痛みを伴って締め付けられる感覚を抱きながら、お会計の対応のためにレジに入ったんだけど、結城さんの名前を呼んだ声は、とってもか細くなってしまった。

「あの、お店の外で待っていてもいいですか?」
「ぇ……」
「食べ終わっているのにあまり長く座っているのは申し訳ないから、君の仕事が終わるまで外で待ちたいです。どうしても、ちゃんとお礼を渡したくて」
「あ、でも、あと一時間もお待たせするのは……っ、だって、結城さん、いつも帰る時間より一時間過ぎても待ってくれてるのに」

結城さんは午後三時にカフェに来て、いつも一時間ほどの滞在でお店を出る。それなのに私を待って、さらに一時間滞在してくれている。そこからまた一時間も待たせることなんて申し訳なくてできない。
おろおろする私を見て、彼はその瞳に優しさを浮かべた。

「俺には、待っている時間があっという間に過ぎる秘密の方法があるから、大丈夫」

きゅん。不意にときめきに襲われて変な声が出そうになった。ときどき敬語じゃない喋りかたをしてくる結城さんはずるい。
秘密の方法ってなんだろうと思ったけど、結城さんの言葉に無意識に頷いていた。……いや、これは私の本能だ。結城さんが私に渡してくれるお礼を彼から直接受け取りたいという本能。あるいは欲。

「お仕事が終わったら、すぐに行きます」
「待ってます。がんばって」

――がんばらなきゃ。がんばらなきゃ!
結城さんのお会計を終えて彼がお店を出たところで、私は心の中でスーパーマンに変身するイメージを浮かべる。もう無敵だ! 誰も私を倒せないんだから!
張り切って仕事をこなして、いつもよりスマイル二倍でお客さんの対応をすること残り一時間。
私のバイト時間が終えれば、あとはマスターに任せ「お疲れさまでした!」と挨拶をして更衣室に向かう。マスターにはガッツポーズで応援されて見送られた。
エプロンを外したあと荷物をまとめ、鏡の前で、ぱぱっと髪を整えてから急いで裏口を出る。心の中で結城さんの名前を繰り返し呼んで、早足に表に回れば彼の横顔が見えた。

「結城さんっ」

名前を口に出して呼んだ私の声に反応した彼が、ぱっとこちらを振り向いてくれる。彼の体の正面では藍色のリボンが結ばれたギフトバッグが大切そうに両手に包まれていた。
優しさがふわりと散るような柔和な笑みを向けてくれて「お疲れさまです」って伝えてくれる。もうそれだけでお仕事の疲れが吹き飛んだ感覚だ。

「あの、お待たせしてすみません。本当に……ごめんなさい」
「いや、待っている時間も楽しかったから大丈夫」

結城さん、なんて優しい人なんだろう。感動に近いものが湧き上がって、じっと彼を見上げていると彼も私を見下ろしてくれる。お互い言葉を発さないまま見つめ合うこと五秒。結城さんは両手で包んでいたギフトバッグを私に差し出した。

「これ、受け取ってください」
「はい……はいっ、大切にします」

宝物をいただいた。そんな気持ちでギフトバッグを胸元に引き寄せて結城さんにお礼を伝える。胸がぽかぽかする。幸せで空も飛べそうだ。

「それじゃあ、また。水曜日に来ます」
「はい。水曜日に。待ってます」

お別れの時間だという雰囲気になったんだけど、もう少し一緒にいられたらなと思ったときには、私の口からとっさに「あの」と声が出ていた。でも、同じタイミングで「あの」と結城さんも何かを言いかけて、私に話題を譲ってくれる。

「結城さん、帰る方向はどっちですか?」
「俺はこのまま商店街を北に抜けます」
「あ、じゃあ反対方向……」

途中まで一緒に帰れたらなって思ったけど、神様はそんなに甘くないらしい。

「商店街の通りに入るまで、一緒に行っていいですか?」
「っ、はい。ぜひ」

快く頷いてくれた結城さんにお礼を言ってから、どちらともなく商店街の通りまで歩き出す。商店街まであっという間なのに会話らしい会話をすることができなくて。ただただ、結城さんに前から質問したかったことを頭の中で呟くことしかできなかった。
質問が言葉になってくれない。こんなこと聞かれたら迷惑かなとか、失礼な質問だったらどうしようとか考えちゃって、気づけば商店街の通りの真ん中に立っていた。

「じゃあ帰り道、気をつけて」
「結城さんも気をつけてくださいね。また」

お互い顔の横で手を振り合って、会釈し合ってからそれぞれ帰る方向に歩き出す。
なんだかいつもの水曜日より濃い日だったな。結城さんといっぱいお話できて幸せだった。
ほんのちょっと結城さんが恋しくなって、十歩ほど足を進めたところで立ち止まって振り返る。
背が高くて、手足が長くて、均整の取れた体躯は後ろ姿ですら格好良い。
もっと彼と仲良くなるにはどうしたらいいだろう。一緒におでかけとかもしてみたいな。来週の水曜日、いきなりおでかけに誘ったら積極的過ぎて引かれちゃうかな。
もっと、結城さんと一緒にいたいな。
彼の背中が遠ざかっていくのを見て、キュンと切なく締め付けられたトキメキを噛みしめながら私は家に向けて再び歩き出すのだった。
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