早河シリーズ第四幕【紫陽花】
6月6日(Sat)午後3時

 香道なぎさ、25歳。彼女は現在、人生最大のピンチを迎えている。
なぎさはよろけた体を支えるために壁に片手をついてうなだれた。

「迷った……完璧に迷った」

 ここは都内のテレビ局。なぎさは関係者用の出入り専用のIDカードを入れたパスケースを首に提げ、茶菓子の袋を抱えている。

 今日は早朝から玲夏の所属事務所を訪れ、潜入調査のために必要な芸能界の予備知識や関係者のデータを玲夏のマネージャーの沙織や吉岡社長に叩き込まれた。

昼過ぎに雑誌の取材を終えた玲夏と合流。玲夏と沙織と共にテレビ局に入ったのは午後2時だ。

 吉岡社長が言うには、今日クランクインする新春スペシャルドラマに出演する役者、撮影スタッフ含めてのドラマチームに玲夏をよく思っていない人物が数名いるようだ。
彼はその中にあの手紙の差出人がいるのではと考えている。

 玲夏がメイクルームに入り、いよいよ潜入開始。
関係者への挨拶回りには本名の香道ではなく、秋山なぎさと名乗った。秋山は母親の旧姓。

なぎさがこれから対峙する人間は情報感度に長けている芸能界、テレビ業界の人間達だ。
〈香道なぎさ〉名義でライター活動をしているなぎさの名前を誰かが目にしていれば、どこかでなぎさの素性が漏れる危険がある。

なぎさの素性を知るのは玲夏とマネージャーの沙織、吉岡社長だけだ。
関係者用IDの名前も〈秋山なぎさ〉で登録している。

 撮影スタジオでスタッフひとりひとりの顔と名前、吉岡社長から教えられた各人の予備知識を頭にインプットしている最中に、先ほど自己紹介を終えたばかりのスタッフから茶菓子を玲夏のメイクルームの届けて欲しいと頼まれた。

意気揚々と茶菓子の袋を抱えてメイクルームに向かった……まではよかったのだが。

 テレビ局に到着してすぐになぎさも玲夏に付き添ってメイクルームに入った。一度行った場所ならば今度はひとりで行ける、目印にした女子トイレを目指せばいいと軽く考えていた。

しかしそんな考えは甘かった。慣れないテレビ局、果てしなく続く長い廊下。当然ながら女子トイレは建物内にひとつではなく、他の場所にもいくつもあった。

 どれが目印にしていた女子トイレかわからなくなってしまい、どれだけ歩いても玲夏のいるメイクルームに辿り着かない。
同じ景色が延々と続く廊下の真ん中でなぎさは確信した。……迷った。

(いい歳した大人が迷子って……恥ずかしい!)

 茶菓子の袋を抱えて左右をキョロキョロと見回した。潜入調査開始からさっそくこんな醜態では先が思いやられる。

(とにかく誰かに道を聞かないと……って思ってるのになんでさっきから誰ともすれ違わないのよっ)

腕時計を見ると迷ってから15分は経っている。玲夏のスタジオ入りは4時。彼女はまだメイクルームにいるはずだ。

(玲夏さんに迷惑かけるようなことは絶対にないようにしなくちゃ)
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