早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
 コーヒーの香りがする。スリッパの足音が近付いてきた。

『お待たせ』

矢野のその声を合図に真紀はふらつく頭を押さえて身体を起こした。床に両足をつけ、立ち上がる真紀を矢野が支えた。

『ベッドにいたままでもいいのにまだそんなふらふらして』
「大丈夫だから……」
『今日、真紀ちゃんの口から大丈夫とか平気って言葉、何回聞いたかなー。大丈夫じゃない時に限って、口癖のように言うよね』

 なによそれ。わかったようなこと言って……と、口を開けば悪態しか出ない。真紀は黙って矢野に支えられて黒いソファーに腰を降ろした。
矢野も真紀と少し間隔を空けて同じソファーに座る。

 真紀の前に瑠璃色のマグカップが差し出された。ミルクの混ざった淡い色合いのコーヒーからはあたたかい湯気が上がっている。

真紀がブラックコーヒーが苦手なこと、コーヒーには砂糖とミルクたっぷりが好みなことを矢野は覚えていた。

「ありがとう。いただきます」

礼を言って、コーヒーに口をつけた。コーヒーは熱すぎず、ぬるすぎず、体調の悪い真紀を気遣った絶妙な温度だ。さすがとしか言い様がない。

『どう?』
「……美味しい」
『あー……! 良かった。真紀ちゃんに美味しいって言ってもらえるのが俺は一番嬉しい』

 子どものように無邪気な顔で喜ぶ矢野が飲むコーヒーは砂糖もミルクもないブラック。コーヒーカップを持つ手は男らしくゴツゴツと骨張っている。
子どもなのか、大人なのか、よくわからない男だ。

(コーヒーひとつでそんなに喜ぶもの?)

矢野の笑顔を見るのが気恥ずかしくて、真紀はうつむいてコーヒーをすすった。彼の作るコーヒーは口に入れた時に最初は少し苦味がある。その後、だんだんと優しい甘さに変わる。まるで矢野自身のようだ。

「矢野くんって、謎だよね」
『謎?』

 気付けばそんな言葉が口から出ていた。首を傾げる矢野は左手にカップを持ち、右腕をソファーの肘掛けに乗せている。

「掴めない人って言われない?」
『ああ、そういう意味ね。掴めないって言うか、何考えてるのか読めないとは言われるよ』
「そう、読めない。どれが本当の矢野くんなのかわからない」

 彼女は中身が半分に減ったカップを見下ろした。矢野との接触が増えるたびに、情報屋としての彼の裏の顔を垣間見る機会も多くなった。

ヘラヘラと軽いお調子者の裏側に隠されたシリアスな顔。彼は情報を獲るためなら手段を選ばない。
危険な方法で情報を獲てきたかと思えば、軽い調子で女を口説く。
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