早河シリーズ第五幕【揚羽蝶】
 眠気の押し寄せる午後3時。啓徳大学工学部の研究棟の廊下を歩く渡辺亮はあくびを噛み殺した。
窓の外は雨模様。昼前から降り出した雨は降ったり止んだり、安定しない気紛れな天気だ。

 階段で女とすれ違った。女は顔を伏せて足早に階段を降りていく。
すれ違った時のセミロングの黒髪から香る匂いに懐かしい記憶が甦る。この匂い、すれ違いざまに一瞬見えた横顔……

『あかり?』

階段を降りていた女の足が下の踊り場で止まる。彼女はハァ、と短い溜息をついて彼の方を振り向いた。彼女の顔を確認した渡辺が階段を降りて同じ踊り場に立った。

『やっぱり。あかりじゃねぇか。日本に帰って来てたのか』
「久しぶり……亮くん」

 長身の彼と小柄な彼女の身長差は28㎝。沢井あかりは彼を見上げた。
昔と変わらない優しい笑顔がそこにはあった。

『3年振りだよな。なんでここにいるんだ?』
「帰国したら懐かしくなって、来ちゃったの」
『懐かしいって……工学部の研究棟には縁ないよな。知り合いでもいたの?』
「……うん」

 やっぱり来るんじゃなかったとあかりは後悔した。渡辺亮が工学部の院生だと知っていたのに、彼と鉢合わせする可能性だって想定していたのに。
こんな展開は何度もシミュレーションしてきたのに、上手く笑えない。

『俺と会ってやっぱり気まずい?』

何もかもが3年前と変わらない彼を見ていると胸が苦しくなる。むしろ、3年前よりも大人びた渡辺の姿にドキドキしている。

「亮くんに……会いたかったんだ」

 伸ばした手が彼に届くまでの1秒間。迷いと期待が入り交じる1秒間。
拒絶されたらどうしよう、嫌がられたらどうしよう、離れられなくなったらどうしよう。

「……彼女いるの?」
『いねぇよ。忙しくて女と遊んでる暇もない』

彼の腕を掴んだ手は拒絶されず、逆に強く引き寄せられる。あかりの小さな身体が渡辺の腕の中に収まった

「麻衣子先輩には告白した?」
『してない。麻衣子とはこのまま、幼なじみのままでいたいからさ』
「ふぅん。意気地無し」
『うるせぇ。どうせ意気地無しだよ』
「でもそういうところが好きなの」

 彼の腕の中で身動ぎ、あかりが顔を上げる。腰を少し屈めた渡辺と背伸びをするあかりの唇が重なった。
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